思い出

おばあちゃんとお別れしてきました。【訃報編】

投稿日:2018年7月9日

 

7月3日。

この日はFIFAワールドカップのサッカー、日本対ベルギーの試合を見終えてサッカーの感想ブログを書いていた。

休みだったこともあって色々とやることをやって就寝。

前日の仕事の疲れはあったんだけど、サッカーの試合で興奮したからかなかなか寝れず、結局寝たのは朝の10時頃。

いつもはもっと早く寝ているんだけどね。この日が休みで良かった。

そして起床。15時。よし、まだ日は落ちてない。

何かしよう。

ふと何気なくスマホを見る。

母から連絡がたくさん届いていた。

何事かとLINEも届いていたのでLINEを開く。

「おばあちゃんが亡くなった」

……は?

 

母に電話をしてみると、今朝早くに亡くなったらしく

朝から電話を鳴らしていたのに何をしていたの?とのこと。

朝なら起きてたよ。

何でスマホを見なかったんだちくしょう。

急いで実家がある鹿児島に帰るべく、飛行機を予約して、電車を調べて、準備をして出発。

一番遅いフライト、19時15分初の羽田発、鹿児島行の飛行機に乗ることにした。

これでも電車移動を考えるとギリギリ間に合うかどうかだった。

急いだこともあって飛行機には無事に乗れた。これで今日中には鹿児島に帰れる。

ただ、今夜がお通夜。

この飛行機じゃ僕はお通夜に行けなかった。

なぜ朝スマホを見なかったのか、

なぜ15時なんかに起きてしまったのか、

なぜ上京して未だ夢半ばなのだろうか、

後悔が交錯して、ただひたすらに情けなかったのと、そんな自分に対するやり場のない憤りを感じた。

飛行機内では悲しみと後悔の涙が止まらなかった。

悔しくて、情けない……。

そして鹿児島に到着。

鹿児島の空は雨が降っていた。関東は快晴だったのに。

台風が来ていたからその影響もあるんだろう。

空港からの移動は夜行バスだ。

これで市街地へと向かう。

泣いている姿が情けなくて恥ずかしくて、最後尾の隅に乗車。

窓から外の景色を眺めながらおばあちゃんとの思い出を思い出す。

僕の家庭はすごく複雑な家庭だった。

なんだかんだ息子は可愛いし親は愛してくれるものだよ。

そういう一般論はあくまで”一般的な家庭”にしか通用しない。

僕は連れ子であり、そして、養子でもあった。

血の繋がりが無くても親にはなれる。

そんなものは僕の知る現実では嘘っぱちだ。

再婚だの養子制度だの、そんな大人の都合だけのエゴシステム。

大嫌いだ。

現実はドラマより残酷で、そこに加減は一切ない。

 

子供だった頃、毎日が地獄だった。

養子後に生まれた実子である弟とは常に比べられていた。

でもそこに公平性は一切ない。親から見れば同じ"息子"のはずなのに。

僕は理不尽に義父からDVを受け続けた。

この関係はどんな結果を出しても変わらなかったし、担任の先生が来ても、警察が来ても、何も事態は良い方向に進まなかった。

「血」が違うだけ。

それだけでこの理不尽。

でも努力じゃどう足掻いても変えられない現実。

子供の僕はその現実を受け入れられる器を持ち合わせていなかった。

心が何度壊れてもおかしくない日々を過ごした。

初めて死のうと思ったのは12歳、死ぬくらいならいっそ義父を殺して死んでやろうとさえも思った。

もし実行していたら、今の僕はいなかっただろう。

そんなボロボロの僕を救ってくれたのがおばあちゃんだった。

どんな時でもおばあちゃんは味方だった。

怒られた時は慰めてくれたし、良いことをした時は褒めてもくれた。

僕にとって数少ない「家族」を感じることができる人だった。

だから僕は親にできなかった分、おばあちゃんに相当甘えていた。

僕が親との距離を掴めるくらいの年齢になっても、その関係は変わらず、ただひたすらにおばあちゃんに甘えていた。

そんな中で、おばあちゃんが体調を崩した。

この時、おばあちゃんの優しさに甘えて僕が頼り過ぎたことが原因だと思った。

だから僕はおばあちゃんに良くなってもらいたくて、

おばあちゃんに甘えず、一人で生きていけるようになろうって決めた。

だから

家を出て県外に行くことにした。

それもうんと遠くへ。

 

まぁその後は実家から籍を抜いたり東京の大学に行くことになったり、脚本家を目指すキッカケに出会ったり、

色んなことがあったのだけど、これは蛇足になってしまうので追々。

 

【お通夜編】に続く。

-思い出
-

Copyright© 脚本猫柳 , 2024 All Rights Reserved.