【告別式編】の続き。これでラストです。
帰りの便。告別式の翌日。
この日も雨。
この2日間、ずっと雨だったなぁと思い起こしてみると、火葬場に行く日だけは晴れていたことを思い出す。
偶然?
そう考えると今降っている雨にもスピリチュアルな物を感じてしまう。
おばあちゃん、僕が居なくなるから泣いてくれているのかな。ありがとう。
帰りの飛行機は無いお金をはたいて指定席で窓際に。
どうしても鹿児島の景色を見納めておきたかった。
次に帰る時は関東で成功した後だ。
そう飛び立つ時、自分に誓った。
雲の上は晴れていて、雨雲の上はこんなに綺麗なんだと思った。
今回の訃報、そして帰省。
たくさん思うことがあった。
一番は残り少ない家族である母への後悔は絶対にしたくないということ。
二番はおばあちゃんから貰った感情を大切に生きていきたいということ。
プロの脚本家になる。
絶対にならなきゃいけないと思った。
それもおばあちゃんに胸を張れる作品を書き続けて。
スランプだなんだと格好付ける前に必死に書いていく。
そう決めた。
人はいつ亡くなるか分からない。
自分の人生だから夢は自分のペースで頑張るなんてちんたらのんびりとやっていたら絶対に後悔する。
人生は自分だけのものじゃないと今回、強く想った。
だから数年以内に絶対結果を出す。絶対に。
そうおばあちゃんに、そして自分に誓った。
おばあちゃんから貰った優しさで良い作品を作って、
おばあちゃんの娘であり僕の母でもあるその人を喜ばせてあげることが
僕ができる一番の手向け、そして親孝行なんだと思った。
きっと故人を忘れないってそういうこと。
故人との思い出を忘れないとかそういう単純なことじゃなくて、
その生き方を継承するというか、故人から受けた影響を持って立派に生きていくこと。
そんな感じがした。
僕はやっぱり脚本家に向いているんだと思う。
おばあちゃんのおかげだよ。
だからうん、
頑張るよ!
ありがとうおばあちゃん。お爺ちゃんと仲良く天国から見守っていてください。
今回の一件で素敵なシナリオって何なのか、その真理が分かった気がして、ずっとスランプだったシナリオについて考えてみた。
やっぱりシナリオは打算や計算で書くものじゃない。
少なくとも僕にとってはそうなんだと感じた。
技術でもないし、勉強どうこうで無理矢理何とかするものでもない。
見てくれだったり体裁だったりで出来たシナリオを書くこと、
想像でこの人はこうなる、こう感じるだろうって書くこと、
そういう域は抜けて書かないといけないなと強く感じた。
もっと溢れ出る感情から書く。
そのためには自分が体験、経験したものから生まれるシナリオが一番良い。
でもこれは取材から得た知識、決して実体験じゃなくても良いと思う。
一人の知識や経験には限界があるし、誰かの経験を書きたくなる、いや書かせてもらうことだっていくらだってある。
多くの人を感動させるためには自分の経験だけじゃ力不足ではあると思うから、こればかりは仕方ない。
でも取材を使うなら自分も心の底からその話に心を投げ入れて、一緒に悲しみ、苦しみ、喜び、自分も一体となって理解して作品を書いていく。
これがすごく大事。自己投影して物事を落とし込むところまで落とし込む。
その覚悟が作家に一番必要なものだと悟った。
今話題になっている芥川賞の盗作の件も、きっとこういう想いを持って書いていれば起こらなかったことなんじゃないかなと思う。
作家に一番必要なものが欠けている時点でどれだけ文章力や語彙力、盗作に至っては編集力があっても無意味。
いずれ破綻していくんだと僕は思った。
感動や涙に理由なんていらない。
こんな簡単なことに今まで気づけなかった。
いや、必死に勉強していたからこそ見失っていたのかもしれない。
頭でっかちになればなるほど気づけなくなる。
上手なシナリオを書けるようになろうって、コンクールで受賞しようって技術を意識した文字を書き続けていた自分が惨めに思えた。
簡単なようで難しいもの。大人になるにつれて忘れがちになるもの。
書き方は人それぞれで人にとやかく言えることではないけれど、
これからの僕は自分の書き方を信じて作品を書いていこうと思う。
結果がむしろ付いてこい。
素敵な作品を書いていくね。
おばあちゃん、ありがとう!
※次回の記事からはいつものブログ記事に戻ります。
長々と読んでいただきありがとうございました。
関東である7月28日のシナリオオフ会、僕は参加予定だったのですが、
おばあちゃんの不幸もあって見送る形になってしまいました。
僕自身、楽しみにしていただけに非常に残念です。
参加する方は僕の分も楽しんでください!
そして、行けなくなって申し訳ないです。
次の機会があれば参加すると思いますので、その時はよろしくお願いします。