-最初に-
8月頭に2週間シナリオを公開するとコメントで話していたのですが、今しばらくお待ちを。
この記事でも書くのですが評価続きの毎日で……。
8月中には公開します!
読んでくれているかわからないけれど、Akiraさんごめんなさい!!
お盆ですね。
皆がせっせと帰省している中、僕は関東で過ごしております。
「こっちで成功するまでは帰らん」と誓ったばっかりに今年の帰省は取り止め。
ま、いつも帰らないんだけどね。
今年はお婆ちゃんの初盆だったから例年よりちょっと考えることが多いかな。
いや、でも帰らん。
初盆に囚われないスタイル。スタイルと言っていいのか。
お婆ちゃん、申し訳ないけど成功するまで待ってて!
特にやることもなく家にいると、日中はシナリオを考えたり本を読んだり、勉強をしたりと、
そんな時間を過ごすわけですが、悲しきかな色々と「負」なことを考えてしまいます。
これはシナリオのことではないんですけど、最近は人に「評価」される機会が多いんですよね。
評価、評価&評価。
はぁ……。「評価」って何なんだろうな
と考えてしまうわけです。
五臓六腑の人間たちが同じ五臓六腑の人間を「評価」する日常。
人間同士で点数を付け合って、順位立て、優遇し合う。
それを繰り返す毎日。
いずれ皆死んで等しく土に還るというのに……。
つまり土同士で優遇し合っているも同義。(暴論)
こうやって改めて考えてみると虚しいことやって生きてんなぁと思うわけ。
資本主義社会の嫌なとこだね。
こういうことをブログに書くと僕自身が「競争」に疲れた感じが出てると思う。
でも僕の場合はむしろ「良い評価」をされる機会の方が多くて、怒られるとか精神的にズタボロにされるとかはあまりないんですよね。
だから勝手に一人で潰れていってるのが今の状況。
何でこんなおかしいことが起こるのかなぁと考えてみると一つの答えに辿り着いた。
「良い評価」があってもそこに「期待」がない
期待がない……。これだよ。
果たしてそこに真に「良い評価」はあるのだろうか。
……僕は決して「良い評価」なんてされていなかった。
ただ褒められ、何となくそれなりに対応されていただけ。
僕が受けていたのは「良い評価」ではなく「良い対応」。
苦手な社交辞令だよ。くそ、またこいつか。
だから一見すると、ストレスフリーっぽいけれど、箱を開けてみればストレスだらけ。
何も食べていないのに蕁麻疹が毎日出てくるくらいには。
「悪い評価」や「対応」でもそこに「期待」があればまた違うのかもしれない
中高の教師がよく言っていた言葉がある。
「怒って相手にしている内はまだいいんだぞ。最終的には相手にすらしないからなっ!」
熱血教師のテンプレとも言えるドラマ的台詞。実際に使われる台詞なとこが驚き。
この台詞には「評価」と「期待」が込められています。
多くの場合、期待しているからこそ人は人を「叱る」わけです。
当時の僕は怒られることそのものが億劫だったこともあり、
「は?相手にしなくていいから無視してくれよ」
なんて思っていたわけですが、
怒られている内が華。この言葉が今になって突き刺さる。
本当に欲しいものは「期待」。
こいつなら何かしらやってくれる
そういう「期待」それに準ずる「評価」が欲しい。脚本でもそう。
こうやって改めて考え直さなくても、内心ではずっと分かっていたんだと思う。
自分が「評価されていないこと」、そして「期待されていないこと」を。
ずっとずっと、気づいていたのに見ないふりをしてきたんだなぁ。
「期待」
人に「期待」をする。
人は一体どんな人に「期待」をするのか。
僕が後輩を指導している時に期待することを考えてみる。
自分と同等の力や能力を得ることを「期待」とは決して言わない。
では一体、どんな時に人は人に期待をするのか。
それは
自分を超えて欲しい時
もしくは
自分とは違う能力が開花して欲しい時
そんな時に人は人に心から「期待」をする。僕ならそうだろう。
自分の力を分け与えて、それでいて自分とは何となく違う道に「自分」を持って進んで欲しい。
そして最終的には、
自分が出来ないことをやってもらいたい、見せてもらいたい
自分と他人が当たり前の様に違うからこそ、なんだよね。
逆に期待しない人って言うのはこの先得るであろう能力は自分でも(以下略)
今更気づくとは……。
こういう深層心理っぽいことも脚本家を目指すルーツになっていたりするのかもしれません。
自分にしか作れない素敵な作品を生み出したい(全国区で)
僕が脚本家を目指す一番の動機。
これも巡り巡ると期待と評価の話に落ち着いてしまう。
何だかんだ「期待」されたいし「評価」もされたい。
褒められなくて良い、叱ってほしい気もする。貶されるのとはまた違うけれども。
自己顕示欲や承認欲求みたいな脚本家が持つそういうものって心のどこかで嫌悪感抱いていたけど、いや、僕自身それの塊だよ!!
なんかね、こうやって色々考えて。
僕と貴方は違うんだよ
そんな当たり前のことを永遠と死ぬまでやっていたいと思って、
それでそんな自分がどこかで必要とされていたいと思っていて、
だからこうやって脚本だったりブログだったりを書いているんだなって思いました。(日記)
「自分」じゃなくて「己」って書いた方がわかりやすいかな。
つまり俺じゃなくて己。
俺は「己」を追求して必要とされつつ生きていきたい。
「おれおおれおのれ」
今日からの僕の座右の銘。響きも相まって良い言葉だ。
オレオは五感が良かったから
オレオを必要としている人くらいの自分にはなりたいと願って入れました。(無理矢理)
皆さんも使ってください。
おれおおれおのれ。
人と違う生き方がしたい
こう考え始めたルーツってのも考えてみるとあるんですよね。脚本家を目指したルーツが生まれたルーツ。ルーツってなんだ。
境遇だったり環境だったり、自分には「普通の生き方」は無理だなと思っている節があるんですよね。
本音は脚本家を目指すというある意味浮世離れした夢追い人になることで「普通の生き方」を諦めた自己を保っていたいんです。
これまでの生き方の肯定と言うか何というか、ね。この経験が脚本に活きるとは思えないけど。
いや、そもそも「普通の生き方」ってのがおかしな発言ですね。
なんかこう、家族がいて、学生をやって、サラリーマンになって、結婚して、家族を持って、老衰して死ぬ!みたいな!
「普通の生き方」、そんなイメージです。
もうね、ほとんど投げ捨てていますよ、20代で全て投げ捨てている現状。
あれ?
もう人と違う生き方してね??
人と違う生き様で、胸を張って死ぬ。
胸を張れることが大事。
死ぬときを考えて生きるって死ぬ前にお墓を選んでいる人みたい。
脚本家、なるぞー!!!