人が嫌いだ……。
~プロローグ~
大学時代、所属していたサークルで合わない人たちがいた。
陰でサークルメンバーの悪口を言っている人たちだ。
彼らの存在や行っていることはサークル内ではみな周知の事実だったけれど、誰も何も言わなかった。
きっと揉め事が嫌なのだろう。
問題にしたところで彼らは変わらないし変われない。
20そこらになって陰口を言う人間は一生そうなのだ。
ふむ、大人な対応である。
そんな中、このままじゃ気分が悪いということでサークル内でその話を積極的に挙げたのが僕、
そう、
サークルクラッシャーふろゆ
である。(サークルは半壊しました)
~プロローグここまで~
僕は人が嫌いだ。
正確には人の「負」の部分を見るのが嫌い。
その人を全否定するつもりはもちろんないけれど、発言や立ち振舞を見て「あ、こういう人なんだ」と自分の中でその人の評価がドンドン下がっていく瞬間。
あれがすごく嫌い。
正直、その人に対する僕の評価が下がろうと、僕の実生活には何の関係もないし、その人にとってもどうでも良いことなんだろう。
でも、なぜかすごく落ち込んでしまう。
だから初対面の人や付き合いの浅い人たちが集う場なんかは、当たり前のようにそういった機会が多くて、気が滅入る瞬間がよく訪れる。
で、こんなことを楽しい場で思っちゃっている自分に再び自己嫌悪することが多いのである。
僕が思っているのだから相手側もきっと……と思うともうダブルパンチノックアウト状態である、いよいよ逃げ出したくなる。
脚本家に必要と言われている「コミュ力」とは何なのだろうか。
それをよく考える。
表面を繕うのは日本人ならほとんどの人が出来ることだから、それではないのだろう。
どんなことがあっても思っても気にしないことなのだろうか、
それとも積極的に話を振っていくことなのだろうか、
はたまた自分の経験の話をすることなのだろうか、
受け身でも、聞き上手に徹して相手を気持ちよくすることなのだろうか。
……。
脚本家には「コミュ力」が必要。
人は簡単に言うけれど、結局それって何なのって今一度考える。
ちなみに上記に挙げた僕が思うコミュ力は、全て受け取り手次第では不快に感じられ「コミュ力なし」と判断されかねないものである。
最適解はきっと、相手にあった適応力と対応力なのだろう。
そんな"自我"としては非常に曖昧で無個性なものが脚本家には必要だと言われている。
僕の持論だけれども、人の「好き嫌い」は表裏一体だ。
僕は「人嫌い」を豪語しているわけだけど、好きな人には人一倍に関心が強い。
それに、独りじゃ生きていけられないほどの寂しがりやでもある。
独りでいると不安になることはしょっちゅうだ。
「人嫌いの寂しがりや」。相容れないようでよくある組み合わせなのだと思う。
こうやって他人のことでいちいち気が滅入ってしまうのも、根源にある「人そのもの」は大好きで、人に対する期待値がとてつもなく高いからなんだろうなと思っている。
で、その落差で勝手に凹み、落ち込む。
好き嫌いは表裏一体。
深い言葉ね。
表と裏の繋がりでもう一本。
現実が表でネットが裏。そうよく例えられることがある。
表は良い人(現実)なのに、裏では嫌なヤツ(ネット)。
人なら絶対に必要な抑圧と解放がここにある。
八方美人が日本の言葉にあるように、日本社会はやはり自分が抑え込まれ易いのだろう。つまり、抑圧されやすい環境。
反対にネットはそれを解放できる場。
だから「表は良い人(現実)なのに、裏では嫌なヤツ(ネット)」。
これの気持ちはとてもよく分かるし、ごく自然な社会現象であるとも言える。
でも、ドラマだとこれが逆になりやすい。
ネット上はとても良い人(裏)なのに、リアルで会ったら嫌なヤツ(表)。
この記事にブーメランしている気もするけれど、そこはご愛嬌で。
出会い系サイト(ネット)で知り合った金持ちイケメンが実は……(現実)。
ってのはお約束のパターンで、実にサスペンスドラマ向きな内容である。
ここで言いたいのはドラマはリアルの延長線にあるということ。
ドラマで起こり得ることは実際にありえるものなのである。
最近これを直に経験する機会が増えたように思う。
ネットがむしろ抑圧側。
"見えない"と表現した方が良いだろうか。
スマホの普及によりネット化が進み、現実でも新たなこういう人間像が生まれてきたらしい。
実に面白い(湯川)。
この場合の抑圧と解放はその特性上「表が現実、裏がネット」のパターンとは少し考え方が違っていて、
……(以下略)。
色々書こうと思ったけれど、性格くっそ悪いなと思ったのでやめました。(賢明)
でもね、特にこれ(想像してね)が嫌いなんですよ。
僕みたいな人間はSNS断ちが精神衛生上良いかもしれないね。
最近全く見てないもん。
ま、
割り切れないことが全て。
人類みな友達
体現は出来ていないけど、心はそうなんよ。
当たり前だけどさ、
人類みな友達じゃねぇんよ。
それを理解できていても、心が追いつかない。
「人」ならここで普通はこうするだろう、と毎度行動や反応を勘繰り期待してしまう。
それでも、
思い通りにいかないのが人間。
落胆は毎度のこと。
自分に危害があるわけじゃないのに不快感を覚えてしまうのって一種の病気だよね。
あえて一つ脚本家に必要なものを挙げるのなら、
それは「最強のコミュ力」なんかではなく、こういう「固定概念を持たずに人と接する力」なんじゃないかなと思いましたとさ。
プロローグの続き。
自分の行動で半壊したサークルを見て思ったのは、
余計なことをしちまったな
という反省。
行動の結果、嫌なやつはサークルを辞め、居心地は良くなった。
でも、
荒んでしまった僕の心。
彼らを辞めさせた発起人という罪悪感が付き纏う。
そうか、こういうことか。
周りの"同年代"の「大人たち」の対応力には頭が上がらない。
"何もしない"ことが最適な場合だって世の中にはある。
この一件で僕が学んだのは、
嫌なヤツがいたら何もせず去る。
のが最も利口な判断だということ。
「立つ鳥跡を濁さず」とはよくいったものだ。
どれだけ気に入っている場があったとしても、苦手な人がいてそれが我慢できない域にあるのであれば無言で去った方が良い。
これを「逃げ」だと言う人もいるだろうが、立ち止まり、一度大人になって考えて欲しい。
僕は大人になりきれなかった側の人間だけど、人はそうそう変われない。
根幹の部分が捻れていたらもう無理だ。
根幹とは何か?と思った人は、「マズローの五大欲求」を調べてみてほしい。
苦手な人間の嫌な部分が低次の欲求に食い込んでいればいるほど、人は変われないものである。
つまり、
事を公にすると半壊を免れることは出来ない。
ここで忘れちゃならないのは、自分もなかなか変われないということ。
自分自身も、嫌なヤツや苦手な人間への見方や対応はこの先関係を続けても変われないだろう。
あの時大人になりきれなかった僕は今、
"大人気なく"ブログでその愚痴を発信しているのである。
嗚呼、
全人類好きになりてぇなぁ。