皆さん、お久しぶりです!
おい何シてたんだおめえ。
そう思っていた方も多いでしょう。
生きていたんかワレェ!!
とムカついた方も多いでしょう。
帰ってきたぜ……!!
ブログを見てみたら2ヶ月近く音沙汰がなかったんだなあ。
ハハハ。
ちょっと嫌に思うことがあって、
シナリオが嫌いになっていました
書きたいものと求められているものが違う気がして。
自分の書きたいものは評価されるものではないのか、とか思ってた。
僕の心の中にある創作マインドが根本からズレているのではないか。
そう自分をずっと疑っていた。
だから、
「もう僕に書けるものなんかない……」
そう思ってシナリオを辞めようかと考えていました。
クリエイティブとは何なのか。
その自問自答に、僕は疲れた。
考えることをやめ、シナリオを窓から投げ捨てた。
こんな状態の僕がブログを書いて、みんなと交流するなんて以ての外だと思った。
こんな僕が勉強会に参加するのは失礼なようにも感じて顔を出せなかった。
何よりも、参加している方々のやる気を削ぐようなことはしたくなかった。
で、何をしていたかと言うと、
腐ってた
何もしていなかった。
何も考えていなかった。
死人と同じことをしていた。
ここ数年、頭の中はずっとシナリオのことが回っていて、思えばこれが僕の良いところだったんだと思う。
シナリオが下手でコミュ力の乏しい僕でも、それでもシナリオ仲間が周りに多くいてくれたのは、人よりもシナリオが好きだったから。
それが自然と他人に伝わっていたからだったのかなと今になって思う。
そんな僕が
「もう描きたくなくなってしまった」
シナリオが嫌になってしまった僕は、「日々考える」その習慣を意識してやめてみることにしてみた。
考えていることが辛かったから。
考えなければ、いずれ元気になるだろうと思っていた。
でも、
余計に鬱っぽくなった
精神の状態がみるみる悪くなっていった。
シナリオは忘れようにも忘れられなかった。
頭の中でずっと「書け、書け」と誰かが囁いてくる。
やめろ、やめてくれ。
僕は何者にもなれやしない。何一つ生み出すことなんか出来ない。
そうしてストレスがピークに達した時、僕は精神の防衛手段として
死ぬことにした
ここで死ぬというのは、『存在を消す』ということ。
本当に死ぬわけではない。
頭の中でずっと
「ふろゆは死んだんだ。お前は死人なんだ。お前は何者でもない」
とアナウンスするもう一人の僕を生み出す。
彼がいることで大抵のことは乗り越えられた。
高校生の時に痴漢されて、1ヶ月不登校になったことがある。
この話はこの話で別の機会にきちんと書こうと思うのだが、
その時に出会って以来の、十年以上の時を経た再会だった。
『死んでいる人間は何をされても平気』
何も感じない。
僕はこの防衛術で1ヶ月の不登校期間から脱却した。
無事登校を続けることが出来、卒業もすることが出来た。(後遺症は残ったが)
だから今回も、
「何考えてんだよお前。死んでんのに調子ノッて人間ぶってんじゃねえ」
そんなアナウンスをずっと脳内で流していた。
ブログもツイッターも勉強会も、
「お前は死んでんだから」そう言われて書くのも参加するのもやめた。
「でも、みんなに一報しなくちゃ……」と言う僕の叫びは、死人に口なしだった。
『心配をしてもらう』というのも生者の特権なのだ。
死んだことで、僕がいなくても回る世界を俯瞰して見ることが出来た。
天国から見下ろしている気分だ。地獄かもしれないが。
ジオラマで生活する人々の一喜一憂を見ながら、
「良かったねえ。残念だったねえ」と届かない声を掛け続ける。
プレイヤー(主役)は僕じゃない。
そう思うととても気が楽だった。
似たような精神防衛術の話を聞いたことがある。
僕の友人は、頭の中に幼稚園児を飼っている。
嫌なことがあったら全部その幼稚園児のせいにするというのだ。
例えば上司に「お前、何てミスやってんだ」と怒られたら幼稚園児モードに突入する。
「僕5歳だからわかんない」
これで全てを乗り越えられるらしい。
そしてもう一人の大人の目で
「なんだこの糞上司。幼稚園児相手にイキりやがって。児童相談所に電話するぞカス」
と考える。
すると心が晴れて仕事やるか。となるのだ。
人それぞれ生きる術が違うのは面白い。
僕に関しては『死ぬこと、自分を殺すこと』だった。
そんな死んでいた二ヶ月。
蘇ったことをここに報告します。
勉強会も顔出したい……!
ご心配お掛けして申し訳ありませんでした。
(連絡くださった皆さんありがとうございました)