思い出

大嫌いな『他人』へ

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義父が亡くなった。


 

早朝、鹿児島に住んでいる母親から突然LINEが来た。

ずっと入院していた義父が危篤だと。

『えっ』

と送ったその数秒後『息を引き取った』と続いて来た。

ガチ会の記事を徹夜で執筆し、朝方に寝ようと考えたこのタイミングでの訃報だった。

ちなみに義父は僕が3歳かそこらの時に、養子として僕を引き取った。

そのため血の繋がりは一切ない。

 

数年前に脳梗塞からの認知症で老人ホームに入った義父は、タバコの吸いすぎから肺炎を悪化して入院。

昨年末に病状が悪化し、胃ろう(延命治療)状態となった。

延命治療に関しては、母親と実子である弟が二人で決めたことで、僕が正月に帰省した頃には既にその状態となっていた。

これは母と弟による気遣いに他ならないのだが、改めて自分が『他人』であることを痛感させられた。

 

その『他人』が亡くなった。

 

弟は義父のために、月に医療費10数万を実家に送っている。

本当に出来た弟だ。

気遣いからなのか、一円たりとも要求してこない。

義父が元気な内にしっかりと成功した姿を見せ、金銭的な援助を行い家族を支えている。

そして僕は、一銭も出していない。

でも他人が出すべきじゃない。そもそも出せないしな……。

 

そんなものだから、

義父の訃報を最初に知るべきは他人なんかでなく、弟であるべきだった。

 

そう思った。

悲しいか?と聞かれても、全く分からないもの。

義父との思い出を頭に浮かべようにも、何一つ良い記憶がない。

 

義父は僕の父親になれなかった。

僕もずっと息子にはなれなかった。

子は父の背中を見て育つと言うが、僕が義父の背中を見ることはなかった。

15年近く一緒にいたはずなのに、

一体どんな人だったのか、

どんな生き様をしていたのか……。

何一つ分からない。

一つ確かな感情があるとすれば、

 

『大嫌い』

 

これだけだった。

 

どうして今日死んだんだ?

貫徹した日、唯一連絡を取ることが出来たこの日に……。

 

訃報なんか聞くんじゃなかった。

どうして僕が一番なんだ。

 

義父が今日死んだという事実に、どうしても特別な意味を求めてしまっている

 

最後に会ったのは、祖母のお葬式だった。

お葬式の前に会ったのは……もういつかも覚えていない。

火葬場で、『今なら仲直り出来るかな?』と義父に近づいた。

だが義父は僕が近づいただけで、舌打ちをした。

僕は後退り、立ち去った。

長い年月を経ても、何一つ変わらない義父。

やっぱり義父は『他人』のままだった。

歩み寄ろうとしたことが馬鹿だった。

分かっていた。わかっていたんだ。

無理なら仕方ない。

でも、これが最後のチャンス。

当時、何となくそんな気がしていて……。

 

義父に近づいたのは、僕の中の後悔を払拭したかったからに他ならない。

 

今更、仲直りもクソもない。それはお互いに分かっていたことだった。

 

義父との後悔。

 

僕が義父に最後に放った言葉。

今でも鮮明に覚えている。10年以上前の言葉だ。

それは、

 

『だから嫌なんだよ!この食卓で飯食うの!!』

 

だ。

義父が僕と仲直りしようと歩み寄り、夕飯に誘った日のセリフである。

義父は酒乱で酒を飲むと暴力的になった。

暴力の矛先は、いつも決まって僕だった。

箸の持ち方が悪い、食材を噛んだ時の音が不快、早起き(6時起き)をしない。

そんなことがきっかけで、存在否定の言葉と暴力を嫌というほど浴びせられた。

それが小学校低学年からずっと続く日常だった。

僕はそんな義父が大嫌いで、思春期を迎えた頃から自室で一人夕飯を食べる日々を送るようになった。

部外者のいない食卓は、平和そのものだった。

いつも暴れている義父は仏のように大人しくなり、リビングには団らんの声が毎日響いている。

そんな日々が数年続いた。

そこで何を勘違いしたのか。

義父は僕に

『仲直りしよう。お前は息子だ。一緒に飯を食おう』

と言ってきた。

「嫌だ」

と言ったが、母親は『お願い』と言う。

断りきれず、いや、少し期待でもしてしまっていたのだろうか。

数年ぶりに共に夕飯を囲むことにした。

義父は最初こそ上機嫌だった。

『この部位がうまいんだ』

と、魚の身を箸でつまんで分けてくれた。

「ありがとう」

と一言返した時、義父はニッコリと微笑み、酒をグビグビと飲み始めた。

そして義父は酔った。

酔ってしまった。

 

罵詈雑言、殴る蹴る(以下略)である。

 

ガッカリした。

心底義父を軽蔑した。

そこで一言言ってやったんだ。

『だから嫌なんだよ!この食卓で飯食うの!!』

立ち去ろうとした時、義父は何も言わなかった。

意外に思って義父を見ると、あの義父が、申し訳無さそうな表情をしていた。

それがたまらなく悲しくて、自室に走って戻った。

 

頼まれても二度と一緒に飯なんか食ってやるものか!!

 

それから今日に至るまで、一度も一緒に飯を囲むことはなかった。

 

義父は、僕の本当の父親になろうとしてなれなかった恥ずかしい大人だ。

養子として子を迎え入れた覚悟は、迎え入れたその瞬間、一瞬だけのものだった。

一過性の感情なんかで、クソ……、クソ……。

本当に情けない大人だと思う。

実父じゃなくて良かった。

……。

 

でも、ずっと悩み苦しんでいた

 

今は、そんな風に見えてしまっている。

あの酒乱に暴言、暴力だ。

父親になろうとは、もう思っていなかったはずだ。

僕も息子になりたいなんて、今更ちっとも思っていない。

それでも、僕のことで悩んでくれていた。

そんな気がずっとしている。

受け入れようと悩んで悩んで受け入れられなくて、苛々が募って酒や暴力へ逃げてしまう。

それは養子として迎え入れてしまった悔いからか、

それとも愚かにもまだ父としての尊厳が残っていたことへの苛立ちからか。

……。

僕は、義父の死を今どう思っているのだろう。

なぜ全く笑えないのだろう。

やっと死んだか、くそ親父。せいせいしたわ!

と、高笑い。

なぜそんな気分になれないのだろう。

家を出る時、

義父の葬式には絶対行かないから!それが俺の復讐だ!!

と言ったのに、飛行機の便を確認しているこの時間は一体何なのだろう。

 

お互い結局、最後の最期まで歩み寄れなかった。

でも、これだけは言える。

 

僕と義父には『他人の家族』という繋がりがあった。

断じて『父』や『息子』ではないけども。

 

義父は、あのラストチャンスで本能的に『舌打ち』したのかもしれない。

上辺だけの解決で終わらせることは、きっとお互いが損するだけだから。

 

『大嫌い』『大嫌い』

 

それでいい。

義父はこの関係が最良だと受け入れていたのかもしれない。

 

最期のその時に、訃報を知らせる第一人者に僕を選んだのは、

 

義父の最期の抵抗

 

そう思えてならない。

悩み苦しんだ義父は、いつだって真逆のことをする。

意識なんかない。死のタイミングなんか意識あっても調整出来るわけない。

だから僕が勝手に言っているだけ。

そうかもしれない。でも、そう信じたいのだから、それでいい。

 

義父が愛情を注いだのは、実子である弟に対してだ。

でも、同じくらいの愛憎を、僕に注いでくれたのだろう。

 

これでもう最期だ。

僕は他人だから、墓参りは行かない。

だから、これが本当に最期。

 

他人が、会いに行くよ

 


 

僕が帰るタイミングを、母親が計らってくれている。

息子なら本来、すぐにでも飛行機を取って帰るべきなのだろうが、僕の家の場合は少し特殊だ。

 

今日は弟と義父の姉が実家に帰る日だから

 

亡骸は実家にある。

僕が今帰っても、邪魔ものだ。

家族水入らずの時間なのだ。

『他人』は必要ない。

帰れない。

色々あって苗字さえも違うしな。

 

人はこんな僕を同情の目で見るのかもしれない。

曲がりなりにも父の死に目に、実家に帰れないのだ。

でも、いつもそうだからもう慣れっこ。

平気だ。

祖母の葬式の時は、故郷に帰省して安ホテルに泊まった。

今年の正月は、10年振りに実家に帰った。

異常なのは昔からだ。

『家族』なんて最初から諦めている。

ずーっと一人。ずーっと孤独。

どうやらその分で、シナリオ仲間には恵まれたみたい。

 

明日は「友引」で、葬式は行えないと連絡が入った。

そして

『明日帰ってきなよ』

と母は言った。

うん。そうだね。

友引に帰っても僕は『友』でもなんでもないからね。

明日は実家に泊まればいいと母は言うが、はたして泊まれるだろうか……。

 


 

週末にはこちらに帰ります。

ガチ会はスケジュール通りに進行します。

記事にも書いてありますが、意気消沈等は特にありません。メンタルも正常です。

家帰って、突っ掛かりだけ吹っ切ってきます。

 

早速応募を数件頂いております。

ありがとうございます。

引き続き、よろしくお願いします。

 


 

母からの連絡を待っている間、寝ようにも寝るわけにいかず、

『シナリオを描く』そんな気分にもなれず……。

結果、ブログで義父との思い出を語っている。

 

個人的な記事ですみません。

僕の一つの家族感。

吐き出せるの、これで最後だから……。

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