雑記 思い出

第36回ヤンシナ一次を見て

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懐かしい気持ちになる


第36回ヤンシナ一次の結果が出た。

エックスでは怒涛の報告ラッシュ。

「自信ある作品が落ちて急いで書いた作品が通過しました」

みたいな投稿を読むと、懐かしい気持ちにさせてくれる。

僕も自信ある作品や準備を念入りにした作品を何度一次で弾かれたことか。

その度に落ち込んで反省して、何が悪かったのかしっかり考えさせられた。

積み重ねの一つ一つが自分の中に蓄積され、作家というものは仕上がっていく。

一次審査には「運要素」があるとよく言われるが、僕はそう思わない。

本当に良いものが描けた時はしっかり通過するから。

何となく描いたものが何となく良かったものとして通過することは、ぶっちゃけある。

僕もシナリオを始めて一年目で一次を通過した時は自分の成長を喜んだけども、その翌年にフツーに一次で落ちた。

いま思うとその当時感じた成長は錯覚で、一年目はただ上振れただけだった。

一次に「運要素」があるとするなら「たまたま良いものが描けたかどうか」。

不確定要素は審査員ではなく自分自身にあったりする。何とも皮肉の効いた話である。


 

「コンクールは力がついてから出したいと考えています」

筆力を高めるには色んなやり方がある。

でも僕は落選して傷つかないと作家性は築けないと思っている。

何が良くて何が悪いのか、面白いもの面白くないものとは何か。

そういったものは反省の中で培われていく。

他人にいくら講評されたとして、そこで変われる人が作家志望の中にどれだけいるだろうか。

まあそこで素直に受け入れられる人が面白いものを描けるかと言うとそうでもないから厄介なのだが。

「こだわり」だったり「頑固」だったり、そういった側面を作家なら持っていた方がいい。

だからそういった人たちは自ら当たって砕けて傷ついて。自分自身であーだこーだ考える他ない。

そのサイクルを何度も行うことで筆力が伸びていく。コンクール応募を続けることが大事だし、その都度自分が悪かったと猛省した方が良い。

よく落ちた後に他人に感想を求める人がいるけども、相手にリスペクトがなければその感想には何の意味もない。中には慰めて欲しいだけの人もいる。

そんな時に頼りになるのは「結果」だったりするわけだけれども、上振れで最終選考に残った人が翌年一次で落ちることはこの界隈ではよくあって。

結果は割とアテにならなかったりする。最終選考ってだけなら僕にだって経験あるしね。でかいコンクールじゃないけども。

作品交換をして「この人の作品、作風、好きだな。こうなりたいな。この人いつかプロになるな」そう思える人から貰える講評が本当に大事。

別に作品にリスペクトがなくたっていい。この人のこういう着眼点好きだな。とか。

そういったものが一つでもあれば良いと思う。素直に受け止められる講評であることが大事。

僕はありがたいことにそういった人が周りに何人かいて、これは本当に運が良かったと思っている。神に感謝。

 

さて、遅くなったけど、本題。第36回ヤングシナリオ大賞。一次の結果だ。

ヤンシナは毎年、出した順に左上から下へ、右上に戻って下へ。と通過作品が並んでいく。

余裕を持って出した人は左上に表示されるし、〆切間際に出した人は右下といった感じだ。

だから自分の応募時期によって大体の場所は分かる。

それでもやっぱり左上から一作品ずつスクロールして確認していく流れが王道なのではないだろうか。

ないと分かっていても左の列を一巡してなかったらため息が出る。そんな人が僕以外にもいるはずだ。笑

もし検索バーに自分の苗字を入れて一発で確認している人がいたらなぜそんなやり方をとっているのかぜひ教えて欲しい。すごく気になる。

さて、肝心の結果である。

……。

……。

無事通過!

絶対に通過すると信じていたし、ないわけがないと思いながらスクロールしていた。

それでもやっぱり心臓はバクバクだったし、名前があった時は声を出して喜んだ。

8年やってきて、一次通過も安定してきて、慣れないものだ。

いつも緊張してしまう。一次に運なんかないと言っておいて、情けないね。

あって良かった。本当に嬉しいよ。

今年のヤンシナは受賞を狙っている。もちろんこれから応募するNHK創作も。

下手くそで落ち込んでいた自分はもういない。

描きたいもの、面白いもの、作家性。

全てを研ぎ澄ましてプロになる。


 

「創作は自由である」

果たして本当にそうなのだろうか。

と、誰もが一度はその壁へとぶつかる。

僕は自由だと思っている。

ただ、自由に描ける範囲があるのは間違いない。

どれだけ筆力ある人でも、どれだけベテランでも、創作の自由には限界がある。

なぜなら

相手がいるから。

完成品が独りよがりの作品で良いのであれば、創作は自由だと思う。

誰から何を言われる筋合いもないし、面白いと思われなくたって構わない。

でもドラマには必ずそれを見せる相手がいる。

友人や審査員、プロデューサー、役者、視聴者と、多くの人がその脚本を見る。

そこで

「いえ、創作は自由ですので、あなたに刺さらなくてもいいんですよ。私は面白いと思うので」

が通るわけない。

一人でやってくれ。となる。

大前提として「分かること」。

こう書くとすごく簡単なことのように思える。でも分からせることはとても難しい。

分からせるために皆がシナリオを学んでいるし、苦しんでいる。

書式一つ取ったって分かりやすさのため。

分かりさえすれば「創作は自由」まさにその通りだ。

そこまで走りきることがコンクーラー全員に課せられた使命でもある。

頑張ろう。

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