雑記

”天才”や”才能”が嫌い

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ちょっと遅くなったけど、フィギュアの話。

今回、唯一見たオリンピック種目です。色々見たかったんだけどね。

羽生選手、そして宇野選手、平昌冬季オリンピックでのメダルおめでとうございます。

演技、泣けました。涙ポロポロですよ

自分の積み上げてきたものの集大成といった点では脚本も一緒だから、

メダルを取った時に感情移入してぶわああって。

夢や目標を達成する瞬間ってやつは見ていて心地良いですね。

 

人は彼らを見て天才だとか才能がすごいだとか言うけれど、僕はそういう表現が嫌いです。

だって天才や才能って持って生まれた物のことじゃないですか。

初めて氷の上に立ってあの滑りと演技が出来たのなら確かにそれを天才と呼ぶのかもしれないけれど、彼らは絶対努力してるからね。

一応書いておくけど、「努力=天才や才能」なら間違いなく天才だと思う。

つまり、僕らも努力さえすれば、目指すとこは違えど同じ場所に立てるかもしれない。

「すごい」だとか「天才が~才能が~」だとか、

自分と切り離して見るんじゃなくて、そう考えていきたいよね。同じ人間なんだから。

そんなことを思いました。僕が言うにはずぶといかな。

 

さて、ここでちょっと努力の話をば。

今回のフィギュア、羽生選手が金で宇野選手が銀。

結果だけ見れば日本がワンツーを取ったわけですが、

努力の量=メダルなのだと仮定して、この二人が本当に世界でワンツーなのだろうか。と。

それは絶対に違うと思う。

※彼らの努力量を否定しているわけじゃないです

羽生選手はオリンピック前に怪我をしていて練習量が少なかったって言っていたし、宇野選手は努力量を語るにはまだ若い。

外国の選手だって死ぬほど練習をしていたはずです。

それでもなぜ金、そして銀とメダルを取れたのか。

こういう時によく天才や才能って言葉が出てくるんですよね。それも嫌になる。

僕は二人の努力家(羽生選手と宇野選手)がお互いに高め合っていった結果だって思っています。

もちろんコーチや家族、他に諸々の環境もあると思うんですけど。

フィギュアスケートって種目上では点数制ですが、一種の美です。

美なんてものは多種多様で、いくらでも姿を変えます。だからこそ把握は難しいもの。

じゃあ練習の時どこを極めれば良いのかって。

ジャンプの高さや回転数は大事だけどそれがイコールではない。

この問題の答え。

それは羽生選手と宇野選手、二人の努力家が同じ国内にいたからこそ、影響し合い、美に対する努力の方向を間違わずに極めていけた。

その結果の金と銀。

お互いに高め合い、メダルに辿り着いた。

僕はそう思っています。

人に評価される美ってやつは努力だけじゃダメなんです。そこを間違えちゃいけない。

大前提として見てくれる人がいる。

脚本も同じだと思っていて、努力の方向性さえ間違えなければいずれプロになれる。

そう確信しています。でなければ目指さないです。だってリスキーな道じゃん。

でもやっぱり自分じゃ気づけないドツボにはまることもあって……。

そういう時に間違いを気づかせてくれる誰かがいてくれると良いんですけどね。

まーいないんですけど!苦笑

考えるだけで怖いですね。ああ、気を付けねば。

 


 

フィギュアスケートに限らず、”天才と呼ばれる人たち”はよく同じ世代に生まれています。

きっとそこには羽生選手や宇野選手のように高め合い、矯正し合う関係があるのかもしれないです。僕はあると思っています。

脚本業界も、こういうシナジー現象が起こらないかなぁなんて。笑

あわよくば僕がプロになれたその後に。その渦に入りたい。

 

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