「あけましておめでとうございます」って何
今年も脚本もブログも精一杯に書いていきますので、どうぞよろしくお願い致します!
年が明けた。
2020年は終わり、2021年となった。
で、だから?
と思ってしまう僕は2020年に取り残された者。
毎年当然のように言っている『あけましておめでとうございます』。
今日はこの挨拶について考えた。
『1月1日』
この日って冷静に考えてみれば、いや考えなくとも『月を跨いで年を越した』。
たったそれだけのことだ。
11月30日が終わって12月1日になるのと何も変わらない。
僕らが勝手に祭り上げなければ至って普通の日常である。
現に先月も当たり前のように月跨ぎはあった。
年越しも結局はただの月跨ぎ。11月が12月になるように、12月が1月になっただけ。
年に一度しかないと言う反論には、2020年の12月1日も一生に一度しかなかったビッグイベントであったと言わせてもらおう。
どうして1月1日だけこんなにも盛大なのか。
12月1日も同様に祝ってあげてほしい。
『俺の月にはクリスマスがあるのに』ってあいつがブチ切れてることみんな知ってんの?
1月だけを祝うのは不当だと思う。
月差別。
ここで1月1日の気持ちを考えてみる。
別に大したことをやったわけでもない。
寝て起きたら1月1日。
たったそれだけのことでお年玉だの国民休んでこうだの、
マラソンやったり特番やったり、
おせち料理なんかひどいものだよね。
仕舞には口癖のように『あけましておめでとう!』とみんな呪文のように言い合う。
ここまで来ると文化と言うと聞こえは良いが、やっていることは『悪い宗教』と大差ない。
1月1日からすれば『は? お前ら何勝手にやっちゃってんの?』って感じ。
特に何もしていないのに『おめでとう、おめでとう』ってさ、バカにしてない? 1月1日のこと。
1月1日は他の月の彼らをのけ者にしてまで祝ってほしいとは思っていない。
『ありがた迷惑なんすわ』
きっとそう思っている。
年を跨ぐ、たったそれだけで祝われる彼の今後には同情しかない。
妬み、僻まれ、裏では陰口を叩かれる。
365日中の364日が嫉妬に狂ってSNSに悪口を書き始める。
彼は望んでそうなったわけでもないのに。
どこかの誰かが勝手に決めた『お正月』というイベントのせいで疎まれる。
こういう決めつけ、えこひいきがイジメの発端となってしまうケースはよくある。
『俺の家ではこうだから』と無条件に特別扱いを受けまくる上級国民に対して、
『それも多様性よね』と野次を飛ばさないほど僕らは人間出来ていない。
カレンダー上に『嫉妬』という負の情念が渦巻くのは至極当然の結果と言えよう。
何も考えずに1月1日という日を祝ったばっかりに、僕らはイジメの片棒を担いでしまっているかもしれないのだ。
ここで
『知らなかったからイジメではない』
『こんなものはイジメにならない』
そんな身勝手な言い訳は通用しない。
イジメは加害者ではなく、被害者の気持ちに寄り添うことが重要だからだ。
だからみんな、1月1日を祝うのはもうやめよう。
正月ハラスメントなんだよ。
日付相手になら何をしても良いなんて、この令和の世には相応しくない。
日付にも権利がある。それが令和だ。
『明けない夜はない』
そうシェイクスピアが言ったように、最悪な事件の後にも等しく僕らは年を越す。
それの何がおめでたいのか。
もう一度考えてみて欲しい。
僕らは『あけましておめでとう』を何に対して言っているのか。
日々と言う連続性のどこに感謝を見出せというのか。
明けたから何なんだと自らの胸に問いてみてほしい。
僕らはメディアや周りの雰囲気に踊らされているだけではないのだろうか。
12月31日が終わったら1月1日。
2020年が終わったら2021年。
そんな自明の理をいちいち祝うほど僕たちは暇ではないはずだ。
……。
今年のお正月は、大トロ中トロをふんだんに入れたちらし寿司を食べた。
丑年を記念して良い牛肉を買ってすき焼きも食べた。
和牛で焼肉も食べた。
お金を使って贅沢をした。
自分へのプレゼントを買った。
みんなが『あけましておめでとう』と祝っていることを不思議に思いつつ、知らぬ存ぜぬと『あけおめ』ラインをみんなに送り返した。
初詣の起源は家長が家内安全を神に願うためのもの。
それを知りつつも家内安全を願う相手なしに初詣に行く約束を取り付けた。
新年の福袋はただの在庫処分セールと分かっていても、朝から並んで買ってしまった。
もちろん僕にとっては誕生日でも記念日でも何でもない正月に、だ。
言行相反と辞書で引いたら『ふろゆ』と出てくるだろう。
それでも僕がお正月を祝ってしまったのは、同調圧力に屈してしまう弱い人間だったから。
新年早々に嫌気がさす。
僕はなんて駄目な人間なんだ。
流されてばかりでもうウンザリ。
こんなところからオリジナリティに富んだシナリオが生まれるはずがない。
そこに自分はないじゃんよ。
もう嫌だ。
せめてもの抵抗に『あけましておめでとう』とTwitterで呟くのだけは避けた。
小さな世界でも、そこだけはマイノリティに生きることにした。
そもそも僕のあけおめツイートを心待ちにしている人間なんかいないことを僕は知っている。
っていうか僕に限らず見たいやついないだろ、『他人のあけましておめでとうツイート』。
何に対してのおめでとうなんですか。
不特定多数が見るSNSで誰に対しておめでとうと言っているのですか。
新年無事に迎えられて良かったねってこと?
そんな切羽詰まった状態のツイートなのあれ。
ハァ……。
2021年一発目の記事は重い。
だから記事の締めくくりに景気づけの一言を言わせてほしい。
『あけおめ』
(ずっと言いたくて仕方なかったやつ)
これで僕も晴れて加害者の仲間入りである。すまんな、1月1日君。
やはり年越しはめでたくない。
三ヶ日も終わって、プロットを書いている。
描きたい感情やストーリーラインは寝正月の内に考えた。
だからそれを文字に起こすだけの簡単な一工程。
そう思ってスラスラと書いてみたが、出来たプロットはくっそつまらない。
俯瞰して見てみると、何が描きたかったのか全く分からない、
酷くとっ散らかった状態だ。
・どんな感情が描きたかったのか
・どこがアピールポイントなのか
そこを抑えて描ききることが大切だと学んだはずなのに、
『描きたいもの』を書くために『描きたいもの』が邪魔をしてくる。
自分らしい作品を生み出すために描きたいものを書こうと決めたけど、何も考えずに詰め込んで書いたらそれはただの独りよがりにしかならなかった。
感情を切り取って選び抜いて表現せねばならない。
尺は限られているから。
自分が何をどう思ったのか。
なぜそう思ったのか。
その感情を分解して追求しろ。
ドラマの中でどのパーツを使えば感情の再現ができるか、しっかりと見極めてプロットを組め。
自分の想いをどうすれば他人に伝えられるか。
そこに持てる技術の全てを費やしていけ。
最低限の構成で、最大限に装飾しろ
自分を消費するのは難しい。
でも自分が描くべき作品というのはそういう作品のことなんだよなあ(達観)