脚本の技術

創作は自由だ。好きなものを描くべきだ。

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それは理想論でしかない。


 

僕はシナリオを学び始めた当初、創作は自由なものだと思っていた。

描きたいジャンルで書き、キャラクターを都合良く生み出し、物語は全てコントロールしていた。

世界を手中に収めた様はもう、神様も同然だった。

これは言うほど悪い状態ではなかった。

 

だって創作は自由なのだから

 

自由に描く。

これが最も自分らしさが出る書き方だと思うし、自分の頭の中がそのままシナリオとして形になることは、自分自身のありのままを評価してもらえることに繋がる。

これで大賞を取った日には、ポカンと空いた欲求たちのモロモロが満たされるであろう。

それに、天才肌の僕の素晴らしき感性や、企業CMだけでポロリと泣いてしまうほどに感受性の素晴らしい僕なら、余裕でコンクールごときは突破出来ると本気で思っていた。

分からないなら審査員のクソ野郎め。

そう思えばいい。

だって僕は天才なのだから。

 

その結果は審査員人形に釘を打つ結果となった

 

悔しかった僕は地に足を付けることに決める。

神は理解されない。天才は孤独、そうだ。

理解されるために下々の者に耳を傾ける必要がある。

 

つまり、

 

勉強をしたのだ

 

この世界に足を突っ込んでみると、シナリオには思っていた以上にルールがあった。

これは書式どうこうとかいう単純な問題ではない。

枠組みと言っていい。明確に定められた範囲、幅があった。

その枠組みの中で最も衝撃的だったのは、

 

ドラマとは何か

 

これがしっかりと確立されていたこと。

この事実を知った時、僕は神から人間へと成り下がった。

 

創作が自由だというのは妄想でしかない

 

ドラマとは何か、テーマ、キャラクター設定、セリフ表現、ドラマ的展開、構成、各々の心情、共感性etc......

その全てに制限があった。

一定のラインを越えたらその時点でアウト。

堕天した神の過ちは、それ一つで石を投げつけられて当然だということを思い知った。

創作は自由ではない(趣味は別)

これは言い切らせてもらう。

ここで言い切ったことで反論する者が出てくることを想定して、根拠を以下に述べる。

反論するものの言い分は大方こうだろう。

『そんなもの誰が決めたのか?』

誰も決めていないし、シナリオ本にも大きくは書けないことだけど、僕は書く。

 

視聴者が決めた

 

読者が、審査員が決めた。

ひいては人類の文化、慣習、歴史、いや、神が決めたと言っても良い。

『人に見せる』という媒体である以上、他人とのすり合わせを避けては通れない。

だから『自由に描いてはいけない』のだ。

 

先日、勉強会にお邪魔した時に自分の書いたプロットに対して多くの指摘が入った。

創作は自由

そう真に思うならこれらは全部聞き流せ。

だって描いた本人は面白いと思って描いていたんだ。

神様曰く既に100点満点のプロットなのだ。

 

しかしこれをそのままコンクールに出した時、僕が大賞を取れるか考えてみるとよく分かる。

 

大賞どころか一次落ち必死だろう

 

人は他人事になってようやく客観的に物事を飲み込むことが出来る。

一次落ちと思った君はなんで僕が一次落ちすると思った?

まだ結果も出ていない、そもそも作品も読んでいない段階でなぜ??

 

答えは簡単だ。

 

指摘を全無視で出したから

 

そうだろう。

みんな感覚でこの橋を渡ることが危険だと分かったはずだ。

でも自分のこととなると橋を渡る人が多い多い。

それは満身からか、思考停止からか……。

つまり、『創作は自由』なんて妄言はクソ食らえってことだ。

 

それでも、

 

創作は自由だ

 

と権利を叫びながら崩れかけの橋をズンズンと突き進んでいく人たちは、僕の想像以上に多いだろうね。

 

 

落ちるよ

 

 

僕が最近になって意識して考えるようにしていること。

 

相手側の視点に立って考えること

 

物事には必ず二面性がある。

『自分』と『相手』

単純だ。

コンクールシナリオは受賞しない限り審査員にしか読まれない。

これは誰もが知っていることだと思う。

つまり『自分』と『審査員』の戦いだ。

 

ここで審査員=ランダムだから運だろう好みだろう。

 

と言っているようでは思考停止である。

 

『実は以前、コネでシナリオの審査員のアルバイトをしていて』と僕が書いたら『まじかー』と驚きつつも納得する人は多いだろう。

僕がやっていてもおかしくはない仕事だ(やったことないけれど)。

しかし、『今回の審査員は駅の清掃員の田中さんとその同僚たちです』となったらそれはありえないこと。

審査員はシナリオに精通した人か、その関係者。

それ以外はありえない。

少なくともエンタメやシナリオからそう離れていない人物であることに間違いはない。

 

ここで少し戻って考える。

勉強会で指摘をくれた人たちは、そのどちら側に立っているか。

 

……。

 

彼らの指摘はそのまま審査員の指摘と同義だと言って良い。

僕はそう思っている。

指摘内容はどれも一突きで絶命するくらい鋭い。

だからくっそありがたいし、直さねーとやべえ、一次落ちだって本気で焦る。

彼らが『うーん』と唸る作品は、審査員も同様『うーん』と唸るはずだ。

言わずもがなシナリオコンクールにおいて審査員の評価はそのままシナリオの評価に繋がる。

つまり『うーん』なシナリオは同じく『うーん』な結果しか生み出さない。

全てを納得させることは難しいけれど、彼らに石を『全力』で投球させない程度のものは描ききること。

これが最初に目指すべき形だと僕は思う。

もし僕が審査員なら、石を全力で投げつけることが出来るシナリオを一番最初に落とすと思うから。

僕が勉強会にこれからも参加し続ける意義の一つだ。

 

そして最後に、

『創作は自由だデモ』を行っている内は、結果は伴わない。

理想論を並び立てるなら、

『好きに描いたものでハイ大賞!!』

なんだけどね。

それこそ宝くじ一等レベルの夢物語なのだと気づかないと。

 


 

創作シナリオは油絵によく似ている。

プロットが下書き。

その上に油絵の具を塗りたくってドラマに仕上げていく。

もちろんキャンバスという枠組から出ないよう細心の注意を払って。

今日の記事は創作は自由ではないという趣旨の内容だったけれど、『キャンバス内であれば』創作は自由だ。

創作シナリオ唯一の自由がここにある。

ここまで描いてきて思うのは、キャンバスがしっかりと見えてからが本番だということ。

それまではシナリオを書くこと自体がくっそつまらないし、結果も出ない。

それでもめげないで立ち向かう他ない。

現実から目を反らして逃げたら、逃げた分だけ出遅れる。

時が経っても、僕が死んでも、人類の歴史が紡いできたものはそう簡単には変わらない。

キャンバスという総意の価値観が依然として目の前にある。

だから自分が強くなる他ない。

変わるしかない。現実と向き合うしかない。

石を投げつけられて痛みを耐えることは強さじゃない。

そもそも、

 

石を投げる機会を与えるな

 

シナリオの採点方法は誰もが加点方式ではなく減点方式から入る。

指摘を受けて思ったのはそこが第一だ。

審査員だけが都合よく加点方式で考えているはずがない。一応書いておくが勉強会には受賞者だっている。

加点になるのは減点方式を抜けたその先。

だから、

 

良いとこを伸ばしていけ

 

出来ることならこんな甘い言葉を書き連ねていきたいけれど、そこが評価されるのはキャンバスの範囲内か否かを判断してもらってからなのだ。

それを実感出来た勉強会だった。

多くの孤独シナリオライターにこれを共有したかった。

 

ドラマをきちんと描くこと

 

これだけ取っても応募作品の大半が消えていくような気がする。

 

頑張ろ。

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