今日は久々にエッセイを書きたいと思います。
意図して暗い内容、見たくないものを書いているので、
読後、嫌な気持ちになりたくない方は
ブラウザバックしてね!
※でもシナリオの勉強にはなる、かもしれないね。
前の記事で紹介した友人曰く、
「みんなが見たいものを書いていてもダメ」
「見たくないものを描くのがドラマ」
らしい。
まじかぁ!!
僕は、
「社会に揉まれて疲れているからこそ安心して気楽に見れるドラマ」
を目指していたからね。
全くの逆を書いていたわけだ。
そんなことを言われても急には変えられないよ。
それに、それが正解だなんて誰にも分からない。
だって友人は「シナリオの天才」なんだろうけど、シナリオに関して「無勉で無学」の者には変わりないわけで、
そういう意味じゃその主張に関してはマウントを取っちゃうよ僕だって。
けれども……。
(突然始まる)本日のエッセイ
タイトル「人でなしな彼らと性格の悪い僕」
これは数日前のことです。
僕のいた駅のホーム。
その真横で貨物列車への飛び込み自殺がありました。
人の自殺現場に遭遇したのは初めての経験です。
飛び込んだ彼は勢いよく列車へと走っていきました。
その様子はまるで駆け込み乗車のようで、
皮肉にも彼にとって目的地へと連れて行ってくれるのがこの「電車」のようでした。
鳴り響く警笛、騒ぐ人々、途端出来上がる群衆。
スマホで撮影する人なんてネットだけの都市伝説だと思っていたけれど、いました。
中には列車の下を覗き込む人もいて、その人は嬉々として電話で「人間だった存在」の現状を事細かに友人に話していました。
同じ人間のすることじゃありませんね。目の前で人が死んでいるんですよ。
それもついさっきまで生きていた人間です。
それが「まだ温かいだけの何か」へと変貌を遂げる。
僕はそういうものは微塵も見たくありません。
見ると必ず気分が悪くなるし、それでご飯が食べられなくなるのも絶対に嫌です。
社会の表側だけでもこれだけ大変なのに、裏側まで進んで見たくない。
なのでこの情報は完全にシャットアウトします。
もう触れません。
触れている人たちはバカ、
バカ、
バカ、
バカ。
アナウンス「人身事故のためこれより救護活動を行います」
この場合、「救護」ではなく「回収」が正しい表現です。
そう脳裏を過って自己嫌悪。
救えるはずもない存在を、僕は既に事務的に見ていました。
群衆から少し離れ、頭を冷やすことにします。
改めて遠くから見るとすごい人だかりです。
「見たくないものを描くのがドラマ」
そんな友人の言葉が頭の中を木霊します。
絶対に見たくないと言っていた僕も、何だかんだ気にはなっているようです。
こんな経験は滅多にない。
脚本家を目指すなら絶対に見るべきだ。
「それ」は見ずともこの群衆の「見たい」という心理を掴むことは重要だ。
等と悪魔がうるさく囁いています。
スマホでやりたくもないゲームをやって時間を潰すことにします。
……。
救護活動が終わり、無事に目的の電車が到着しました。
早く家に帰ってシャワーを浴びたいです。
電車に乗った瞬間、足元が少し生温かい感じがしました。
さっきまでこの電車の下には……
これ以上考えるのはやめることにします。
もう全て忘れます。
さよなら、見知らぬ人。
(終)
いつも綺麗な物を書いているけれど、今回は趣向を変えてチャレンジ。
「見たくないものを描く」というテーマで書いた本作。
そのテーマの回答こそが、このエッセイの面白さなのだと書いてみて思う。
これもこれで作品全体を通して「見たくないものを描いている」つもり。
それぞれの性格の悪さや社会の裏側。
そこにある葛藤やキャラ心理の矛盾。
これらシナリオに落とし込むべき要素をエッセイにも落とし込む。
やっていることはエッセイだろうと一緒なんだ。
違いは経験談か否かってだけ。
出来上がった作品を読んでみて、確かに怖いもの見たさじゃないけど、読み進めたくなる気もする。
うーむ。
こういうことなんかな?
読後感はやっぱり悪いけど。
ちなみにブログにある記事検索で「エッセイ」と調べると、
僕の過去に書いた綺麗なエッセイ作品たちが出てくるので、お口直しにでも良かったら読んでみてください。
エッセイ、書いてて面白いし、シナリオとブログの間って感じがして何だか楽しい。
機会があったら本でガッツリ書きたいなあ。
プロの脚本家になったらエッセイ本を一本出すのも目標にしようかな!
「短編エッセイ集 ~今日は創作日和~ -ふろゆ(¥1180)」
うん、需要ねーなコレ。苦笑
何と言われようとブログでは書いていくけどな!!!(>エッセイ)