みんな、あけおめ2022!遅
皆さん、あけましておめでとうございます。
一月遅れでこのブログも新年を迎えることが出来ました。
テレ朝、テレ朝、テレ朝と執筆続きでブログを書く余裕がなかったのです。
今年は色んな勉強会の講評も「ちゃんとやりたい」そう心に決めて始まりました。
僕の講評は準備に時間が掛かる……。
具体的にはこのブログ記事一本仕上げるくらいには一作品を読み込むのに時間を割くんです。
そこから文章に起こすのだから、この効率の悪さよ……。泣
なので、今月はコンクール締切の都合上、更新頻度めっちゃ減ります。
いつも更新頻度高くないけども。苦笑
今年はテレ朝と並行してヤンシナも描く必要がある。
で、僕は器用じゃないから片方ずつしか出来ない。
だからテレ朝終わらせてヤンシナ~と行きたいところなんだけど、ヤンシナ真っ白は具合が悪いからテレ朝集中しつつ、少しでもヤンシナを進める。
……。
そんなマルチタスクが出来るわけもなく、やる気だけが削がれていき日々自己嫌悪。
遂には大量のタコの夢を見た。
これは凶夢で、夢占い曰く『しがらみに囚われている』とか何とか。
絶対にコンクールのことだ……。
それでも何とかヤンシナで描きたい題材を3本思いついて3本プロットに起こし……
で、3本無事に酷い出来。
今日はなぜ3本全てがクソみたいなことになったのか
をメイン記事に書いていこうかと思っている。
ちなみにシナリオ仲間は
「テレ朝かヤンシナどっちか選べってことなんだと思うよ」
って鬼畜問答を仕掛けてきている。
選べなくね??
十中八九シナリオ仲間の考え方が正しいとは思っている。
どちらか片方でも結果を残せたら万々歳だし。
タスク分散で気が散るくらいなら一個に絞れ。
分かるよ。分かる。
でも……
テレ朝シナコンと、ヤンシナシナコンよ!?!?
選べるわけねえよなあ!!
っつーか、極端だけどこの2本のために日々精進していると言っても過言じゃない。
だから無理してでもやる。やりたい。
今年は絶対に結果を出す。
毎年そうなんだけど、今年こそマジでね!!
2022年も脚本猫柳、そしてふろゆをよろしくお願い致します。
シナリオを描き始めたばかりのシナリオ初学者の方に「どんなシナリオを描けば良いか分かりません」と相談を受けた際、
僕が何を提言するかと言いますと、
最近、嫌なことあった?
と聞く。
"嫌なこと"は感情が震えた場面だからだ。
そこを軸に作品を描くと良いドラマになる。
本人が経験したことなら主観的で分析しやすい題材だと思うし、人生を含めた感情の深堀りは作家にとって最初に歩むべき過程だから。
「自分の人生」と言う題材は、とても描きやすいものだと思っている。
感情を描くことがドラマ。
そしてまずは自己分析。
そういうところから脚本家は始まっていく。
これは「脚本家になりたい」と願う人ならどんな人でもいずれ考えることであるし、
初学者で混乱しているわけでもなければ題材として"自分のこと"を選択するのはごく自然にも思える。
自分の経験をシナリオに起こしたい
とか、
この感情に共感して欲しい
とか。
分かってくれ。辛かったんだよお
とか。
そういう気持ちは良い起爆剤にもなる。
これが跳ねた時、結果に残ることも大いにある。
お医者さんが描く医療物には説得力があるし、面白い。
子どもが好きなら子どもメインの話。これまたリアルで可愛らしい。
大恋愛をしてきた人なら少し弄るだけで良いラブストーリーだ。
自分の中から面白い作品が生まれる可能性は幾らだってある。
でもでもでもでも
自分の経験に基づく執筆。自分の心から生み出す執筆。
5年近くコンクーラーをやってきて気づいたことだが、
これは公募歴2年未満の初学者が"試す"べきことである。
皆は自分の人生をどれだけドラマチックに捉えているだろうか
一度考えてみて欲しい。
脚本家志望はロマンチストである。
なぜなら「脚本家」と言うなれる保証などどこにもない狭き門を自分だけはくぐれる。
そう信じているからだ。
紛れもなく僕もその一人である。
そして僕は自分の人生を劇的と思って生きている。
嗚呼、なんて人生だ
常々心のなかでそう叫んでいる。
人生の一部分を執筆したことは過去に多くある。
それで結果が伴わなかったのは、
「その程度の人生だったから」
そうは思わない。
では落選をどう受け止めるかと言うと。
自分の筆力がなかっただけ
こうである。
最初はそう信じてた。
でもね、それは違う。
自分の人生を「くだらないものだ」と否定しろと言っているわけではない。
ドラマにするような人生ではなかった。
そう受け止めるべきなのだと思う。
事実は小説より奇なりと言う言葉は逆説的に、劇的で突飛な話=面白いことではないことを表している。
人生には人生の、ドラマにはドラマの流れがある。
自分の経験を元に執筆すると言うのは、それがパズルのピースのようにパチっと審査員にハマった時しか結果は残らない。
で、人一人に人生は一つ。
つまり究極的に言えば執筆チャンスは一度きりである。(コンクールは年単位であるけども)
コンクール応募でビギナーズラックを発揮して以降鳴かず飛ばずの人の多くは、自分の領域の外に出ることが出来ていないのではなかろうか。
自分のことを描くことが脚本家の仕事ではない
それは僕に言われずとも、皆が分かっていることだと思う。
仮に自分の人生がドラマ的だったとして、それが評価され一作品受賞を受けても、一本描ききったら燃え尽き症候群に陥る。
それではプロとして続けていけない。
受賞してそれっきりの脚本家は多くいる。
それがこの世界の怖いところでもある。
それでもなお、皆が自分の領域に支配される。
「自分の人生がドラマ的か否か」
ここに縛られている人が多くいるのが脚本家志望のリアルだ。
先ほど自分のことを描くことが良い起爆剤になると言ったけども、それがずっと「動力源」になっている人が多くいる。
コンクール応募作品には「いじめ」、「夢」、「自殺」の話が多いと聞く。
どれも経験談に近い話なのだろう。
内容もそれだけ気持ちの籠もったものなのだから、良いドラマが描けているはずだ。
でも考えてみてよ。
そんな人はいっぱいいる
この世界では特に多い。
ドラマは「感情」と前述したけども、肝心の付随する感情が「コンクールで評価されるもの」ではない。
言っちゃ悪いけど平々凡々なのだ。
隣の人の作品を見たら自殺の話。
それは大いにある。
具体的に紐解いて書く。
たとえばいじめの劇的なドラマを描いたとしても、
"いじめられた者の感情"
肝心のこのドラマそのものが埋もれやすいものである。
だから近年のドラマでは、いじめの話は出てもサブプロット程度。
今ではメインも張れない題材だ。
自ずと隙間(切り口)を狙って描けることも限られてくるし、細かいディティールは多くの脚本家が過去に描いてきた。
ここまで言っても描く人は描くだろう。
「いじめられた過去が辛いから」
執筆の動力源がそこなのだから、もうテコでも動かない。
だからこれは
「呪い」
なのだろうな。
コンクールでは新しい才能が求められている。
それを頭では分かっているはずなのに、真逆のことをしてしまう。
現実を直視せず、呆れるほどに自分の経験や感情が特別だと執筆してしまう。
「僕だけはこの事象をこのように考えている」
そのような考え方は慢心でしかない。
もっと周りを見るべき。謙虚であるべき。
受けた事実に対して『見識を深める』。
慢心を度外視で考えるなら、本人の考える勝負ポイントはここなのだろうが、
ではこの見識の深さが他人(視聴者含)とどれだけ差異があるのか。
脚本家を志す以上、このスキルに関しては一定の自信を皆が持っているはずである。
隣の人も同じくらい見識深い。
それが今いるこの世界だ。
そこで評価を受けるためには、君が相当な変人でなければ敵わない。
僕は脚本家を志してビギナー期である2年は余裕で越えた、いわばまあまあ歴のあるコンクーラーである。誇れることでは全く無いが。
それでいて、ついこの間まで初学者と全く同じ描き方をしていた。
やっていることは自分の感情の深堀り、そして切り貼りの連続である。
この自己領域から出ただけで、作品の質がだいぶ上がったような気がする。
隣の人は自分とよく似ている人
3年以上コンクールに費やしてプロになれない人たちは、それを理解した上で題材を吟味する必要がある。
もちろん僕も他人事ではない。
2022年。
今年は飛躍の年ではなく、結果を残せる年にしたい。