雑記 脚本の技術 思い出

恋愛ドラマの本質は福山雅治と手を繋ぐことへ帰着する

投稿日:2020年12月24日

薄っぺらな恋愛の先には何もない


 

最近、愛について考えている。

 

雲の上在住神様より、

『お前はこの地獄を生き抜き、いずれ素晴らしい映像作品を生み出せ』

という何とも無責任な天命を受け取った心ない人形は、マリオネットの如くどこの誰とも知らない神様によって操られ、踊り始めた。

踊ることもうかれこれ4年目である。

人形だった僕は時が永遠にあるかのように当時は感じていたが、いざ使い古した自分の体を見渡してみるとボロボロである。

4年という歳月では、変わらないことの方が難しい。

劣化の一つだってする。

ところどころに糸はほつれ、目のボタンは取れかかっている。

手首からはワタが吹き出して、『自死だけはいけませんよ』と、自分が死ぬことなどを一度も考えたことのないようなお気楽人間たちから善意の慰めを受ける。

 

お前たちに何が分かる。

そんなピカピカの人形に、俺の気持ちなんか分かるわけがないだろう。

 

そう強気に言えたら『流石生粋の夢追い人のふろゆさんですね』と格好の一つだって付くが、残念なことにメンタル激弱の僕には飛び出たワタを我が身に押し戻し、仮止めをし、『死ぬ気なんて毛頭ありませんよ。見てください。僕はまだまだピカピカです』と、自らを偽ることでしか自我を保っていられないのだからひどく滑稽である。

いや、もはや自我を保てない領域にいるからこそ我が身を天に委ねているのか。

こんな話をしていると、トイ・ストーリー2のウッディの腕の糸が解れたシーンを思い出す。

冒頭のウッディのドラマへの解答は、持ち主のアンディによって導かれていた。

人気者と書いてウッディと読む。

陽キャ代表のウッディでさえも、アンディという天任せに頼らざるを得ない大惨事。

それが現状の僕だ。

世の中には自分でどうにか出来ることと、どうにもならないことの二つがある。

そんな夢のない無情な現実を子どもたちの前に突きつけて、

『どうだ。面白ぇだろ?』と自信有りげな表情を浮かべているのがピ○サーという制作会社のやり方だ。

(10000%偏見です。トイ・ストーリー大好きです)

二十後半になってウッディと自らを重ね合わせている自分。

アンディ頼む。俺もその高みへと連れていってくれ。

俺の心もウッディのように、裁縫針で縫い合わせてくれ。

そう頼むとアンディはきっとこう言うだろう。

 

アンディ『腕は直せても心は治せないよ』

 

こういう時、子どもは意外と核心じみたことを言うものだ。

確かにそうだ。傷口の状態がまるで違う。

腕の切断も中々に大事だが、治療次第で命を取り留めることは容易いだろう。

しかし心の方はどうだ?

ここで皆に問いたい。

胸に風穴を開けて生きている生き物を見たことがあるだろうか。

ないだろう。

普通に即死案件だ。これを小学生に治せと頼むサイドに問題がある。

しかし、僕は一度だけ見たことがある。

ホロウだ。BLEACHの虚。

気になる人は1巻で出てくるからぜひ書店に寄って読んでみて欲しい。

あれの成れの果てが僕なのだ。

そんな『心にポッカリと開いた穴』

『ポッカリと』と形容するにはあまりにも無残で端ない穴の開いている僕が、

近頃は『愛』を求め、その意味を考えている。

どういう風の吹き回しか。

ホロウのように開いた穴を埋めるためではないのは確かだが、これでは一護も気持ちよく月牙天衝で僕を成仏させることが敵わない。

 

『愛』って何

 

これは脚本家を志し始めてまず、最初に考えるべきことだろう。

『愛を知ることこそがドラマである』

100人に『ドラマとは何か?』と聞いたら15人くらいはそんなことを返してきそうだ。

100人に聞いてみました的な凡庸な問いへの解答は、既に網羅しきっていたはずだった。

なんせ僕は脚本家志望歴4年である。

4年なんてペーペーだと言われるかもしれないが、自称中堅だ。

この業界は離脱者が多く、4年で中堅はそう的外れではない。僕はそう思っている。

しかし4年目にして初めて『愛』について真剣に考える辺りが自らのポンコツ具合を助長させ、思わず手首からワタの一つでも吹き出したくなる。

っ愛って何なんだよ。

改めて考えてみる。

 

……。

 

ここで一人、助っ人を召喚したい。

一人で考え込んでも答えを導き出せる気がしないから。

この難問を相手に、情けなくも詰んでしまったのだ。

そんな時は他人の考えと照らし合わせて模索する。

三人寄れば文殊の知恵、困った時はYahoo知恵袋。

いにしえより伝わりし先人の知恵である。

さて、召喚すべくは予てよりとても優しく接してくれているシナリオ仲間の一人。

ここではそのシナリオ仲間の彼を暫定的にF木さんと呼ぶことにする。(深い意味はない)

F木さんは飲み会で一言も発しないようなコミュ障お化けの僕でも何度もオフ会に誘ってくれる聖人だ。

僕という偏屈者に合わせて気を使い、会議ではなく個人ラインでわざわざオフ会に誘ってくる辺りは聖人通り越して天使、いや、それさえも通り越してもはや変人の域だろう。

もちろん良い意味での変人だ。悪気は米粒一つだってない。

もしも僕が幹事なら、感情を失ったマリオネット人形なんかに声は掛けない。絶対にだ。

飲み会での僕の立ち位置を例えるなら、

 

『地雷』

 

だからだ。

あいつに触れたらまずいんだと、皆の心の声がいつも聞こえてくる。

触れなければ被爆することはない。だから放っておこう。

ほとんどの人は僕に対してこのような対応をとる。

それでも中には爆弾処理に使命を燃やす奇人変人が数人いて、果敢にも話しかけてきてくれる。

被爆してあっさりと去る者もいれば、導線を一つずつペンチで切ることに2時間を費やす者もいる。

嗚呼……

自分で書いていて辛くなったからこの話はこの辺りでやめにします。

ぶった切るけど勘弁してケロ。

一応書いておくけど、それでも飲み会に行く理由は話を聞いているだけでその人の人となりが知れて、人間的にどこか成長出来る気がするからである。

 

以前、飲み会や勉強会に毎度誘ってくれるF木さんから恋愛ドラマについて軽くだが話を聞いたことがある。

 

F木さんは主にラブコメを描く人だ。

第一印象はサスペンスやヒューマン、もしくは社会派ドラマといったような、ミーハー視点では『何だかすごく書けそうな人が書くジャンル』を描いていそうなインテリジェンスなイメージだからか少々、いや、ここは包み隠さずに正直に書こうと思う。

 

意外だ。

 

シナリオにストイックだが人当たりがよく、シナリオ志望界のご意見番とも言えるF木さんの心には確実に熱いラブがあって、彼らと共に日々精進し、戦略を練り、ハートフルな作品を生み出し続けている。

僕はこのギャップになぜだかとてつもなく惹かれるのである。

不良が捨て猫を拾うに似た感情だ。いわゆるギャップ萌え。

そんなF木さんの語る恋愛ドラマ論はこうだった。

 

『恋愛ドラマにはパターンがある』

 

一つ注釈を加えさせていただくと、この記憶は定かではない。

あまりにも家で鍵を失くすから玄関に鍵置き場を設置したにも関わらず、設置したことを忘れて明朝に部屋中ひっくり返して鍵を探し回る男、それがふろゆという人間の脳だ。

もしかするとF木さんはこんなこと一言も言っていないかもしれない。

しかしこのままでは話が進まないから『言った』と結論づけて勝手に話を進めようと思う。

彼は確かに『恋愛ドラマにはパターンがある』そう言っていた。

証人はわたくし、ふろゆである。信憑性は皆無だが、どうか最後まで聞いて欲しい。

本人不在のままこのブログ記事がインターネットという海の藻屑と化することを祈る。(どうか読まないでくれ)

 

恋愛ドラマのパターン。

なるほど。確かに王道と呼ばれる形は存在する気がする。

王道一つで何本も描けてしまうのか。

しかし、毎年星の数ほどに量産されているものが恋愛ドラマ(映画)だ。

高校生のデートの定番スポットといえば?と、聞いたら3人に1人は映画館で恋愛映画の鑑賞だと答えるだろう。

もしもボックスで『映画館がなくなった世界』を創造した世界を想像してみると恐ろしい。

彼ら彼女らのデートで向かう場所がなくなってしまう。

地方出身の立場から言わせてもらうと、残るデートスポットは動物園か水族館の二択しかない。

大げさに聞こえて笑えるかもしれないが、これは誇張ではないと明言しておく。

田舎には本当に何もないのだ。ちなみにカラオケやボーリングはデートとは呼ばない。

三択から二択になると自動的にデートは交互となる。

水族館と動物園の、地獄サイクルの始まりである。

象やジンベエザメの大きさなんてものは、最初の感動が全てだ。

以降は『あれ、ちょっと大きくなったね?』くらいしか話すことがなくなる。

このデートプランニングで十分に満足できるのは、ムツゴロウさんかさかなクンのような特異体質持ちの選ばれし人間だけであろう。

映画館がなくなることで、全国的に高校生の失恋数の統計値が大きくなることは容易に予見出来る。

それに加え、将来を夢見る多感な時期の高校生の『次のデートはどこかな?』という選択肢が消え失せる側面も極めて遺憾だ。

動物園の後は水族館、水族館の後は動物園、その繰り返し。

見えている未来ほどつまらないものはないというのが僕の考えだ。

自らの未来を夢見ることは高校生の特権の一つなのに、三択が二択へとなる。

三択であれば、映画の後は動物園か水族館で自由に選べるのに。

次に向かう場所が『100%水族館なのか』と『50%水族館なのか』と書くとその影響力が大変分かりやすくなる。

この三択には我々大人には到底推し量ることが出来ない雲泥もの差や想いがあるのだ。

言わずもがな高校生にとってのデートは貴重で、大切な時間だ。

毎年上映されるありふれた恋愛映画をクソツマラナイと野次る大人も中にはいるが、どうか彼ら彼女らの未来をこれ以上奪わないで欲しい。

光ある未来をそこだけでいい。残しておいてくれ。

もしもボックスはこの記事を書き終えた後にでも、僕が破壊しておくよ。

いいよなドラえもん。未来の子どもたちのためなんだ。

 

しかしまあ、恋愛映画というものは、

一通りの恋愛を経てから見た方が『あの頃の俺は』と色褪せた思い出スライドショーを脳内で同時上映することが出来、一層感動するもんだなと大人になって思う。

だが、この映画の主なセグメントである高校生の彼ら彼女らはまさにウブそのもの。

恋愛では赤ちゃんだ。

そのため、恋愛映画における醍醐味など知る術を持ち合わせているはずもない。

大人の立場から『大事なのは今なんだよ』と、声を大にして教えてあげたい。

『今の限定性』に危機感を持って恋愛をしている高校生は日本中を探し回ってもほぼいないだろう。

若い内は別れたらすぐに好きな人が出来る。

落ち込むポーズこそはしても、それが人生におけるかけがえのない瞬間だったのだと気づいている学生はほとんどいない。

パパ活なんてものが流行るのは以ての外である。

若さで男は手に入れられても、失った時間はもう二度と手に入らない。

パパ活女子にはそれについて小一時間ほど説教をしてやりたい。

パパの方はどうでもいい。あいつらは余暇でやっているから。

その時間に価値なんてねえ。

やつらは時間泥棒も良いとこだ。

泥棒は犯罪ですよオジサン。

 

つまり、大人になってからの恋愛は非常に淡白であることを彼ら彼女らが想像出来ないことが問題なのだ。

 

あの人好きな気がするなあ。どうしよう。気持ちを伝えようかな。

 

そんなドキドキを日昼夜通して考えることが出来る幸せが、学生の間という刹那の瞬間にしか訪れないということを彼らは知らない。

そうなんだと知るのはもっともっと先になる。

僕はここで提言したい。

 

『これこそ義務教育で教えるべきだ』と。

 

性教育や大人になっても使える法律、制度。

これらの世間で言われている『学生がもっと学ぶべきこと一覧』。

僕はこの話が出る度に、常々薄っぺらさを感じて辟易している。

そんな形だけのルールだけを教えたって素行が良くなるはずがない。

犯罪なんかが減るはずない。

『ルールを守れば健全な大人になれる。だから守りましょうね』

こんなものは抑圧以外の何物でもない。ただの洗脳だ。教育にあらず。

しかし大人たちはこの謎理論に全力で便乗して、あーだこーだと若者たちに説教を垂れるのである。

こうやって『愛』の意味が分からない不可思議な存在が生まれるのである。

『最近の若者はー』という薄っぺらさ満点のセリフから紡ぎ出されるストーリーに何一つ魅力がないことをシナリオ描きなら分かるはずだ。

自己満足も甚だしいクソドラマである。

 

我々大人はもっと、自らの淡白さ、つまらなさを、学生諸君に教える必要がある。

社会は無機質で退屈で、クソつまらないんだぞ、と。

 

閑話休題。話を戻す。

恋愛映画のパターン。

毎年同じようなものばかりと言われている所以もそのパターン性から来ている。

 

しかしそれは、

『ひな型がある』

わけではない。

 

因果関係のある男と女が出会い、別れ、再会し、キスをしてハッピーエンド。

そのことをパターンだとF木さんが指して言っているわけではないのだ。

 

それについては人は恋愛映画のどこに惹かれるかというドラマの面白さを追求することで導き出せる。

 

恋がしたい、

共感を感じたい、

設定が面白そう、

エトセトラエトセトラ。

 

映画館の数あるラインナップの中で、人が恋愛映画を選び、見る理由。

先ほど述べた薄っぺらい動機から恋愛映画の鑑賞を決める人はいないだろう。

そんな動機なら僕は横にある余韻もクソもないただ人が続々と死んでいくB級ホラー映画をアトラクション感覚で見たい。

違う。そうじゃないんだ。動機の根源は他にある。

この記事をここまで読み進めた君たちにはもう分かっているはずだ。

そう、恋愛映画は

 

横に恋人がいるから見たいのだ

 

これは現実の彼女でなくても構わない。

頭の中でも良い。架空の存在でも良い。

登場人物と自分の恋人を照らし合わせ、そことのジェラシーに似た感情を感じたいがために、我々はタネもオチも分かっているはずの恋愛映画のチケットを買う。

思い返してもみて欲しい。

デートで恋愛映画を見て『私たちは彼らよりもラブラブだねっ!』なんて言えるだろうか。

言えないだろう。

必ず負ける。負けるように作られているし作っている。

したがって、彼氏はこういう関係が羨ましいなあと、隣に座る彼女の手を思わず握ってしまうのである。

二人に足りない恋愛要素を確認するために、カップルは皆映画館へと通っているのだ。

女子はそんな良いシーンでタイミング良くそっと手を伸ばしてくる男子を『彼が私の王子様なのだ』と錯覚して幸せに想いを耽るのだ。

錯覚すると言うと語弊があるかもしれないが、男のその所作には若干の性欲が混入されている。

これは子どもも大人も大して変わらない。

男の純愛なんてものは性欲の上に成り立つ。

肝心なのはどちらが前面にあるかだ。

その違いで男の対応に大きな差が生じることが問題なのである。

男には脳みそが二つあるから仕方ない。頭と下半身は別の生き物だが運命共同体なのだ。

だから女性諸君のイメージする王子様とは本質が少し違うだろう。

男は総じて王子気質ではないかもしれないが、君のことが好きなことに間違いはない。

仮に性欲が全開だったとしても、その裏に愛がなければ自ら手を差し出して来たりはしないはずだ。

だからどうか、安心して手を握り返してあげて欲しい。

 

つまり恋愛ドラマ(映画)のパターンとは、

『思わず隣にいる人間と手を繋ぎたくなるようなシーンまで繋げる展開』

これに尽きる。言うのは簡単だが。

 

かのイケメン、福山雅治は虹でこう歌っている。

 

今僕は行くのさ

イメージの向こう側へ

 

と。

『愛とは何か。』

この答えを模索している内がチャンスだ。

分かってしまったら、もうそれは見慣れた光景である。

一度見てしまった象やジンベエザメと同じだ。何も感じない。

高い塀を乗り越え、見たこともない巨人と出会うから進撃の巨人にはロマンを感じる。

その先に海があって、更には国々が、文明までもが広がっている。

一体この世界はどこまで繋がっているのだろうかと思いを馳せることが出来る。

『地球は丸い』

この事実に気づいた学者の興奮は、言葉では言い表せないほどのものだったのだろう。

その感情は今となっては人類史の深い海に幽閉されてしまっている。

『地球は丸い』と言う歴史的発見は同時に、一つのかけがえのない謎と、それに伴ったかけがえのない感情をこの世から喪失させた。

もしかすると発展で得られた功績よりも、損失の方が大きいのではないのかと、シナリオ描きは思う。

地球の丸さが証明されていなければ、僕らは地球の形を自由に想像でき、各々ロマンに胸膨らませることが出来たのだから。

 

また脱線をした。話を戻します。

 

つまり、見えなかった向こう側が見えるから人はドキドキやワクワクを感じるのだ。

福山はそこに行くと言っていた。俺も行きてえよ雅治。

言うこともイケメン過ぎんだろチクショウ。

 

今恋愛映画を福山雅治と一緒に見たら、僕はそっと彼と手を繋ぐだろう。

 

先に言っておくが、僕はゲイでもバイでもない。福山雅治はイケメンだが。

手を繋ぎたくなる想いなんて人それぞれだ。そこに正解なんてものはない。

僕が福山雅治と手を繋ぎたくなるような今の感情。

これを皆は想像が出来るだろうか。

恐らく出来ないだろう。

そういうところに恋愛ドラマの本質がある。

『愛』がある。

思いの丈を、感情を、全て吐き出して描く。

脚本家自らが胸が締め付けられながら、心を消費しながら叫び続けること。

そうすることで、福山への道は開かれる。

それが出来ないなら恋愛ドラマなんて描いても意味はない。

それはもう、ただの物語、一次落ち必至の駄作シナリオだ。

 

福山はイケメンなんだと、そう叫び続けながら執筆を始めようと思う。

 


 

今日はクリスマスである。

 

こんな日は、いや、こんな日だからこそ、

『誰かから必要とされていたい』

そう人並みに思う気持ちが僕にも湧き上がってくる。

 

しかしその相手は恋人である必要は全くなくて、ただ僕を必要としてくれる存在が周りにいてくれればそれだけで幸せだったりする。

そんな浅はかな自分が愛に飢え、恋活をすることは酷く短絡的で惨めな感じがして、それらの感情は押し殺して日々を過ごしている。

 

思えば昔からそうだった。

 

20歳のクリスマス。

当時彼女がいたにも関わらず、クリスマスなんか滅びろと言う世紀末な友だちとモツ鍋を食べて過ごした。

彼女の気持ちを思えば酷いことをしてしまった。鬼畜の所業だ。

当時の僕にその想像力はなかったのである。

むしろ彼女と会わなかったのは優しさからだった。

人に必要とされることは幸せなことなのだと断言は出来たが、クリスマスのような神聖な日に悪魔の手先のような僕が大切な人と過ごして良いとはならなかった。

人の幸せを奪う権利は僕にはない。

だから脳内に天の邪鬼を飼って『ボッチのトモダチがカワイソウヨー』と本心とは真逆のことを嘯いて、それもそうだなとモツ鍋屋の暖簾を友人と共にくぐったのである。

他人の幸せを妬む妖怪となら悪魔も気兼ねなくクリスマスが出来たのだ。

 

恐ろしいことだが僕の本質は『恋愛における幸せ』を望んでいないのかもしれない。

自分はそこで幸せになるべきではないと願う感情が、心のどこかに確実にある。

 

『こんなはずではなかった』

人生における正解の選択肢をことごとく外して回ったそんな情けない男が大切な女を幸せに出来るはずがない。

必ず不幸にしてしまう。

書いてみるとイカロスの羽っぽい話だ。

身の程をわきまえずに太陽に近づくと、後悔しか残らない。

 

それでも、こんな僕に魅力的だと声を掛けてくれる人がたまーに現れる。

オフ会の爆弾処理班のような優しさからだろうか。それとも好奇心からか。

いずれにせよ、ありがたい。

しかし前述の通り僕は、大層な人間ではない。

シナリオ以外何一つ能がない。

世間的にはクズだ。

唯一のシナリオさえも怪しいと言われる人間。

それが分かっていても好意を寄せられると耐えきれず、なびいてしまいそうで辛い。

面白いことに悪魔の中にも天使と悪魔が共存している。

モノローグで語り合うという安っぽいドラマが日々展開されているのだ。

 

このブログの読者ならよく分かるはず。

 

とりあえず今日を乗り切ろうと思う。

クリスマスなんてバカヤローだ。

漢ならKFC食って寝る。

以上がクリスマスの予定だ。

 

 

あああああ。

 

助けて雅治。

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