やわもちの宇治抹茶味にハマっている。
最近まっちゃがうまい。
小さい頃は間違いなく嫌いな味だったはずなのに、今では好き好んで抹茶を食べている。
こういうことって何かの節目の年によくあって、
例えば20歳になりたての頃、サラダに目覚めた。
今まで野菜が嫌いで食べてこなかった分、ヤギやヒツジにも負けないくらい草ばかりを食べまくっていた。
ファミレスでの注文はもちろんサラダ。
マクドナルドに行った時でさえバーガーではなくカップサラダを食べていた。
そんなもんだから当時の僕の血液は緑色をしていた。
人が変わる瞬間というのは誰にしも訪れるものなのだと思う。
僕はこれを運命だとか、神の啓示だとか言うつもりはない。
実際当時の僕は、
『年をとったことで味覚神経が劣化して、野菜に含まれる苦味成分を感じづらくなった』
とかクソつまらない思考回路をしていた。
ここで素直にサラダに目覚めることのできた喜びを噛み締められる人間であったならば、
僕は今より少しは生き易かったのだろうなと思う。
アマゾンプライムで映画を見た。
「インターステラー」と「きっとうまくいく」だ。
どちらも3時間コースの長編映画だった。
それぞれに思うところはあった。
レビューサイトでは似たような(悪い)感想が見受けられた。
が、正直めちゃくちゃ面白かったからそんな感想はどうでも良かった。
『この映画の楽しみ方が分かってねーな』
この一言に尽きた。
これは辻褄だとか説明不足だとか、そこが人より分かっていることに対してではない。
っつーか僕もその点は分かっていない側の人間だ。
ただ、
『楽しく見終えたらそれで良い』。
そう思った。
「躓いた時点でつまらない」。
そういう意見に対しての僕の考えを書いていきたい。
ドラマであれ映画であれ、演劇、アニメ、小説、漫画。
媒体は何であれそのどれもがプロの作品だろうと所詮創作だ。
ドキュメンタリーではない。
人が頭の中で勝手に作った絵空事。
リアルとは最も離れた場所にあるもの、フィクション。
創作者が脳内で広げた風呂敷をどう折り畳めば良いか、その収拾をつけるためにギリで納得出来るような解を探し出し、示した。
物語における説得力の裏付けの内訳はそういうところから生まれたものに過ぎない。
だから誰もが納得できるような完璧なものであるとは限らない。
誰もが納得出来るような展開を100%描ききれる人はプロを含めたって少ないようにも思える。
でもそういうシチュエーションや展開、オチが一つでもあると☆1のレビューを付けられることがあるのが今の世の中だ。
当然作品全体の評価にも大きな影響を与えている。
納得がいかなくて躓く=面白くない
ではない。と僕は思う。
実際インターステラーもきっとうまくいくも面白かった。素晴らしい作品。
素敵な3時間×2だった。
見たことを一ミリだって後悔していない。
しかし、
「納得がいかないことをなくすこと」
これを突き詰めることが我々の目指すゴールのようにも思えるし、評価に値する作品なのだと皆は豪語しているような気もする。
『☆1レビューが付くような作品を僕らは生み出すべきではない』
これは日本的悪しき文化のように思える。
書いていて耳が痛くなるが。
完璧に仕上がった土台の上に社会的なテーマを乗せ、出来上がったテンプレート内でキャラクターやドラマをどれだけ表現することが出来るかが争点。
そんなところからインターステラーやきっとうまくいくは生まれない。
国境を越えていけるような作品が生まれるはずない。
☆1がつくような作品こそ世の中には溢れていた方が良いと僕は思っている。
環境を取り巻いている視聴者至上主義で書くおもてなしジャパニーズ精神は、業界の成長を大きく止めているような気がするからだ。
☆1のチャレンジングな作品が受け入れられていくことで視聴者も変わることが出来るのに、世の中には☆5作品ばかりが溢れている。
どこかで見たことがあるようなもの、原作ありきなもの、ひどく堅苦しいもの、創作論がそのまま作品になったようなもの。
そりゃ見る側の感想も歪で的はずれな、エンタメからかけ離れたダメ出し作文にもなる。
これは僕の持論だが『ヒットは生み出すものではない』ということ。
☆1作品が爆発的な人気を得た時、その現象を初めて『ヒット』と呼べるのだと思う。
『悲しい話は嫌いだから☆1です』
実際にこれを書かれたらムカつくけれど、こんなレビューがありふれる世の中がむしろ創作先進国なように今は思える。
エンタメは頭空っぽで楽しむべきだ。
『長いものに巻かれることが君のやりたいことなのか』
これは最も自分に言いたいことでもある。
心に響いた歌詞の一つ。
『長いものに巻かれて終わる。いやそれどころか巻いて終わるのさ』
ONEOKROCKのTakaが言っていた。生き様が超格好いい。
良い曲である。
後悔しないように生きる。
そんな風に生きたって悔いは残るさ。
どう生きたって後悔するのが人生。辛いけど。
つまり何が言いたいかと言うと、
悪魔に魂を捧げる必要があるのが僕ら脚本家志望なのかもしれないということ。
この記事で書いてあることと真逆のまとめであるが、現実がこうなのだ。
人と接していて思うが、理想論だけを振りかざしていたって世の中うまくいかない。
これは脚本だけの話に限らない。
僕の場合はよく頭でっかちだと言われ、聞き入れて貰えないことがある。
それで失敗しても『アハハ失敗しちゃったね』と開き直られ、僕の頭でっかちが撤回されることもない。
正しいことを言っているつもりでも、変人は僕。悪は僕。
世の中そういうものだ。『正義』と『悪』の両極端しか存在しない。
出過ぎた杭は打たれる。業界から見れば僕は異常者で頭のおかしい人間。
『理想』の敵対者は『現実』。
逆も然りなのである。
だから何つーか、
長いものに巻かれる
プロを目指すならその覚悟を持っていた方が良いように思える。
特に実力も実績もない今は。
ムカつくから吐き出したかった。
今日はそれだけの記事。
4月はNHK創作シナリオ大賞の題材を決めた。
自分にしては珍しく取材もやった。
後はプロットを仕上げるだけ。
受賞してプロになったら、業界を今以上に盛り上げていくことが僕の夢。
そのためなら悪魔にだって魂を売ってやる。
創作ドラマはそんな気持ちを持ってやる。
もし受賞したら喜ぶ前に発狂するつもりだ。
みんなも頑張ろーな。