多様性は大事だよね
ハトは自分本位に生きている。
ハトは人の生活圏にズカズカと入り込んでくる寂しがり屋のくせに、いざこちらが触れようとすると『触れんじゃねえ』と飛び去っていく。
そのくせしばらくするとまた我々の足元へと戻ってくる。
これだけ聞くと、なんと身勝手な『かまちょ』なのだと叱りたくもなる。
ちなみにかまちょとは『かまってちょーだい』のことを意味する。
近頃は何でもセンテンスを分けて冒頭を略す傾向にあるのだ。
脚本家志望もいつしか『脚志』と呼ばれる日が来るのかもしれない。
『私、脚志なんだー』
一体なんのこっちゃと突っ込まれそうだが、かまちょという意味不明な造語が生まれたのだから、そのツッコミはもはや野暮だと言えよう。
飲み会や勉強会に顔は出すが、構われるとその実態はコミュ障で去って(黙って)しまう。
僕の対話術はハトのそれと全く同じである。
そのためラインのアイコンは自分と重ねて『ハト』を好き好んで設定している。
そして『史上初のハトと人類の異種間コミュニケーションの誕生だ』と勝手に盛り上がるのだ。
しかし、
ハトが人間のデザインされたスタンプを使うのは如何なものか
という脚本家志望界隈にありがちな揚げ足ツッコミを僕は恐れた。
『異種間コミュニケーションの誕生』という世界観を大切にしたかったからだ。
自ら作り上げた世界の均衡を保つため、僕はハトのデザインされたスタンプの購入を余儀なくされた。
乗りかかった船である。
この素晴らしき生誕祭を無下なものにしないため、お前は身も心もハトに捧げるのだ。
by神
書いていて思うが、いっそ本当にハトに生まれ変わりたい。
社会不適合過ぎてもう脳内半分ハトかもしれないが。
ところで、みなさんはハトのラインスタンプを調べたことがあるだろうか?
どの世界にも流派というものは存在する。
それはラインハトスタンプ界も例外ではない。
なんとラインハトスタンプ界にも、
『絵柄可愛い派』と『実写リアル派』
という二つの流派があるのだ。
ううむ困った。
どちらか片方だけなら選択の余地なしと利便性を追求した使いやすいものを選ぶのだが、そこに流派があるとなると他にも選定ポイントの設定をしなければならない。
不覚にもラインアイコンに実写リアル派を採用していた僕は、またしても世界の均衡を保つため、実写リアル派スタンプの購入ボタンへとそっと指を置いた。
……いや待て。
ハトのリアルアイコンを設定している僕が実写リアルなスタンプを使う。
すると『このハトは随分とナルシストなやつだな』と思われてしまうのではないだろうか。
僕はアイコンの中のハトに既に愛着を持っていたこともあって、
そいつの悪口を言われることだけは避けねばと、すんでのところで『絵柄可愛い派』の購入に至った。
ここでそもそもふろゆが可愛いスタンプを使うのは如何なものか
という新たな問題が生じてくる。
何とも面倒くさいやつだなと思われてしまうかもしれないが、そんな心の声が聞こえてしまったのだ。
気持ち悪がられるのではないだろうか。
「いい年してこんな可愛いスタンプ使ってどーしたの???」
と嘲笑う声がラインからも聞こえてくる。
しかし僕は『無類の可愛いもの好き』であったために『可愛いは正義』という根も葉もない理屈を振りかざして可愛いハトスタンプを使い倒すことに決めたのだった。
しかしこの『可愛い』というのも厄介なもので、あくまで主観的な感想なのである。
他人から見ればそうでもなかったりする。
最近、とある女の子とラインで会話をしていたのだが、『いらすと屋』のスタンプが送られてきた。
街中でも見かけるようになったあれである。
(こんなやつ)
僕はあれを可愛いと思ったことが一度もない。
パッと見て『あっこれいらすと屋だ!』と分かってしまうところに抜きん出た個性を感じてしまうと同時に、それを絵の全面に出し切っている作者の自己顕示欲のデカさを想像してしまうからである。
その汎用性の高さも凄まじく、現代においてあらゆる場所で採用されている。
そこさえも顕示欲と照らし合わせて見てしまう僕は、何とバカでかい承認欲求なのだと畏怖さえも感じてしまうのだ。
このブログもこの記事で遂にその片棒を担ぐことになったわけだが。
そんな闇を感じるスタンプを女の子が男に使うのは如何なものかと。
『女の子は可愛くあるべき』という現代では嫌われる腐ったステレオ思考の持ち主である僕は、
『そのスタンプ可愛くねーわ』
と何様目線で諭すことにしたのであった。
すると返事はこうである。
「これ可愛いもん(怒)」
当然だ。
女が男にスタンプを送る際は『可愛いから』送るのである。
そうか、そうだよな……。
『多様性は大事なのだ』
シナリオを描くようなクリエイティビティに富んだ人間は、数ある選択肢の中から一つを選んだ人間に対し、『この場合はこうである』という固定観念を持ち合わせてはいけない。
何でも受け入れられる聖母マリア的な精神が創作上では大いに役に立ち、その心持ちを日常生活より持ち合わせていることが上質で現代的な作品を世に生み出す結果に繋がるのである。
現在『マヂカルラブリーのM-1ネタは漫才ではない』という論争が巷では話題となっているが、あんなものは脚本家志望から言わせてもらえば些細な問題なのだ。
『多様性は大事』
この精神を皆が持ち合わせていればそんなくだらない論争は起きない。
みんな脚本家を目指そう。
しかし、ここまで脚本家志望のクリーンさを推しておいてなんだが、
やはりズレというものは簡単に矯正出来るものではない。
『つまらないネタはつまらない』と人が断言してしまうように、可愛くないと思ったものは実際にそいつの中では可愛くないのである。
つまり
『多様性は大事だよね』
この思想と好みは分けて考えねばならない。
女の子にいらすと屋のスタンプを使ってほしくないと言う感情は紛うことなき真実である。
ぶっちゃけると『好きで使う』その感性への理解が追いつかないのだ。
僕としては『やめてほしい』のである。
その人に良い印象を持ち続けたいがためにわざわざ指摘をしたのだ。
彼女が僕とこの先も円満な関係を築いていきたいのであれば、やめるべき事案なのである。
ここで初めて僕は自覚する。
ハトスタンプを連発している自分もこのように映っているのではないかと。
他人は自分を映す鏡。
昔、ハトって可愛いよなあと彼女に伝えたら、『え? 汚いじゃん』と一蹴されたことがある。
当時を今でも覚えているが、僕は傷ついてしばらく彼女と話すことが出来なかった。
その話が尾を引いたかは当事者の僕でも未だ分からずにいるが、性格の不一致というありふれた理由で僕たちは別れた。
しかし当然である。ハトの悪口を言う人間とハトが好きな人間は相容れないのだ。
何とも生きづらい世の中になったものだ。
まさかハトスタンプを使うことさえも躊躇しなければならない日が来ようとは。
『いらすと屋スタンプはやめてくれ』と言った手前、そのままそれが特大ブーメランとなって返ってきた。
それでも僕はハトスタンプを使い続けるのである。
何か言われたら言い訳はこうだ。
『多様性は大事だよね』
公明正大な言葉にも聞こえるが、これはただの思考停止なのかもしれない。
この記事を書いている途中で気づいたのだが、
本気でハトになりきるのであれば
『ポッポーポッポ、ポッポポー』
と『ポッポ語』だけで会話するべきだろう。
しかしそんなことをラインのグループ会議で行った日には『ナンダコイツ?』と除名待ったなしである。
やはり人間、固定観念は捨てねば生活は苦しいらしい。
ポッポに幸あれ、ポッポポポー。