作者の葛藤、これもまたドラマ。
シナリオを人に読んでもらった時、
ここはどういうことなんですか?
と問われることがある。
これは(忘れて)書かなかった描写や、
「分かるやろ!」と高をくくってぼんやりと書いたシーンなんかでよく突っ込まれる。
で、やっぱりそういう疑問が飛んでくると、
その疑問を解消すべく当然、
書き直す。
こういう行動をとるのは当たり前である。
僕自身、「疑問を減らす直し」は決して悪いことではないと思っていた。
でも、最近はそうじゃないんじゃないかと思い始めていて……。
プロの作品、いや、ここではいっそ名作と言おう。
そんな名作を見ていると、
え? 彼に何があった?
と思うことがある。
名作なのに。
でも、
「それはきっとこういうことで……」
と勝手に脳内解釈して何だかんだ最後まで見ることになる。
で、見終わった後。
ああ、名作だったわ
と、なる。
ここで仮に、「読んでくれた方の疑問」を解消すべくシナリオ上に詳細に書き込んだパターンを想像してみよう。
(自分の作品で想像してみよう!)
その追加シーン、面白いかな?
説明シーンは往々にして面白くないもの。
納得いかなきゃラストが映えない。そんな作品だって確かにある。
そういうラストありきの話ならつまらなくても説明シーンは書かねばならない。
これは作品にとって必要なこと。
でも、ほとんどの作品で例外に当てはまるはずだ。
「視聴者の想像力」を信じて「賭け」って言ったらすっごい悪い感じがするけどね。
そこに賭けて(説明を省いて)一つでも魅力的なシーンを書く方が作品にとっては賢明なんじゃないかと最近思い始めてきた。
特にコンクールみたいな枚数制限がある場合は特にね。
そんなシナリオは、
穴だらけになりがちで、
ボロクソな批評をされがちで。
それでも!
穴を埋めるよりも、一つでも多くの柱を立てる。
そんな割り切った勇気が大事なんじゃないかなぁと思いましたとさ。
ここはどういうこと? あれはどういうこと?
これを解消するのって視聴者の「納得」にしかならない。
目指すのは「納得」じゃなくて、「興奮」させるドラマ。
減点法で100点のドラマより、加点法で100点を取るイメージ。
減点を食らってでも、一つでも多く刺さるシーンを盛り込んでいく。
そんな作品への強欲な姿勢を持っていきたいね。
原稿が50枚や100枚ならなおさらね。
正解じゃないと不安になる。
そんな日本人的思考が妨げになっている側面はあると思う。
ちなみにこんな偉そうに書いているけれど、僕はシナリオをいつも減点法で書いてしまっている。
授業で正解に不安を感じてしまうと手を挙げられないタイプだね。
こういうとこを変えていかなきゃな。
殻破ってこうZE!!
これを思ったのには色々と理由があるのだけど、
その一つに、
映画の第二弾はたいてい失敗する
というジンクスがある。
これ、なんでそう言われているのか考えてみた。
単純に二作目の方がクオリティが低いって場合もあるんだろうけど、僕が思うに、
一作目で描かれなかった真実を二作目で説明しようとする。
だから失敗するんだよね。
かといって前作と繋げなかったら第二弾じゃないし。
何でこういう現象が起こるか考えてみると、
一作目で描かれなかった真実
つまり、「説明しなかった」遊びが一作目にあるんだよね。
それがすごく魅力的に映るから「じゃあ2作目やろうぜ!」ってなる。
それらのシーンは、あえて説明する必要がない場合がほとんど。
視聴者の想像に任せて良い部分だったりする。
でも第二弾でやっちゃう。そこを書いてみたくなっちゃったから。
そうなってくると、
その説明シーン、面白いですか?
となるのは視聴者からすれば当たり前なわけで。
だからこれを紐解いていくと、
第二弾を作る場合、
一作目で気になった「説明したい部分」、そこに焦点をあてて作るとまだ面白くなる可能性はあるかもしれない。
その疑問を中心にプロットを組み立てる。
一作目の世界観を崩さずに表現するにはそれはとっても難しいと思うけど。
なんかそういうことを思っちゃってね。
二作目が付け入る隙って言うのかな?
そういう作品が名作にはありがちで。
隙があっても全然面白いことを証明してくれている。
これは、そのシーンを書かないから面白くなっていると考えても良いのかもしれない。
だから最近は、
隙を埋めたら面白くなるとは決して思わない。
でね。
これは僕の個人的な指標なんだけど、
この作品の後日談が見たい!
とか
あのサブキャラのサイドストーリーが見たい!
とか、
そう思える作品って良い感じに遊びがあるんじゃないかなって思う。
二作目を作りたくなるくらい、書きすぎていない。それでいて魅力的って言うのかな。
そんな作品が出来上がったら大切に扱っていきたいなぁと思ってる。
これ現在進行形ね。笑
誰かの参考になれば……!
ではでは。