テレ朝始動
テレ朝やらねーとなーやらねーと……
そんな独り言を頭の中で繰り返す日々を一ヶ月近く送っていた。
んで、やる気が全く起きない
原因は色々ある。
家族のこと、自分のこと、シナリオのこと、コンクール審査のこと。
全部モヤっとする!
どれも考えても仕方のないことだ。
そんなことは分かっている。
モヤるくらいならブログで発信しちまえよ!とも思うのだけど、
その気力さえ湧かないという。
そんなわけだから、ただただぼんやりと一ヶ月生きていた。
もしかしたらこの世で自分が誰よりも意味のない時間を過ごしていたのではなかろうか。
先月、シナリオの勉強会in池袋が開催されるとの連絡があった。
コロナのこともあり、久々の開催である。
僕は何気に皆勤賞、なのかな?
コミュ力がないのに毎回参加している。
というのも、参加メンバーの個性が好きなのである。
久々にみんなの顔が見たい。
でも、行くかどうかで当日まで悩んだ。
モチベが低い自分がこういう場に参加して、モチベがある人の足を引っ張るようなことはしたくない。
どう転んでも良いように、自分のプロットを用意して、他の人の講評シートを作った。
そして当日の朝を迎えた。
さて、どうしようか。
そんな時、グループラインに一件の通知が入る。
『最近シナリオと向き合えていなかったため、刺激を貰うために参加してもいいですか?』
シナリオ仲間の一人からのものだった。
悩みの中身は僕とは全く違うのだろうが、自分と同じ心境のものだった。
勇気が貰えて、急いで準備を始めた。
いそいそと講評シートを準備していた時点で行く気は満々だったのだ。
もう一押し、何か理由が欲しかった。それだけだったのだと思う。
ここで足し算にならないところが良い関係だ。
メンヘラ彼女とメンヘラ彼氏がくっついてズブズブと沈んでいくような、そんな結果にならないのは本当に素晴らしい。
ネガティブ×ネガティブはポジティブ。
これも相乗(シナジー)効果と言います。
覚えておくように。
開始時刻から一時間半過ぎた頃に現地に到着。
急いで講評会に参加する。
何か久々だな、この空気。
Zoomの講評会に最近参加出来ていないこともあって、人とシナリオの話をすること自体が久しぶりだった。
……。
刺激もやる気もいっぱい貰えた。
具体的には
テレ朝受賞するぜええええウオオオオ!!!
と池袋の駅前で叫べるくらいには燃えた。
躁鬱なんか? と思えるくらいシナリオのやる気が綺麗な放物線を描いた一日だった。
行って良かったなー。
久々の講評会を終えて。
自分の中で講評会に対する想いを吐露したいと思う。
これは常々思っていることでもあって……。
それは、
リスペクトの先が聞きたい
と言うことだ。
ある程度シナリオを擦っていると、講評会で意見が一致するライン。そういうものが見えてくる。
言葉では形容し難いが、なんて言うかな。
無難なところ?
これが見えてくる。
『普遍的なシナリオの描き方』とかそういう話ではなく、シナリオを面白くする共通項みたいなもの。
葛藤が、昇華が、キャラクターが、筋が、題材が。
主にそういったものが多いかな。
良いドラマの共通項。これを遵守したものを『ドラマ』と呼びます。
アドバイスしたら一斉に皆が「だよねー」と言ってしまうような、そんな意見。
この段階に、シナリオの勉強を続けていく内にいずれ辿り着く。
というか、勝手に見えてくる。
で、そこからズレたシナリオはドラマと呼べなかったり、そもそも駄作になったり、
創作を型にはめるんじゃねーよ って意見もあるだろうけど、型は残念ながらある。
その型を守った上で、どう我流に持っていくか。
ここからが創作の極み。
この我流の部分。
これを軸に講評会では話し合いたいんよなあ。
自分が求めすぎているのは分かっている。
まだ数回しか会っていない関係で、お互いの作風を十二分に理解もしていない状態で、そういう講評をしろってのは無理がある。
でもさ、無難な意見を言い合ってもつまらないし、自分の意見(作風)なしに語っても大きな変化は見込めないじゃん?
そういうことが言いたい。
現状の講評でも気づき合いで『あぁー盲点だったわー』みたいなやつはある。
これは直さなくちゃいけない部分だし、有益な情報でもある。
ただ、そういうラインはとうに突破していなくちゃいけなくね?
プロ目指してんだからさ。
凡ミスを言い合ってもちっとも前に進んでいかない。
皆が納得して、ハイ解決。次いこうね。
そこで話が終わってしまうのでは、講評会の意味はない。
それぞれが能力的に足りていないわけではないんだと思う。
それでもこうなってしまっているのは、
リスペクト不足からか遠慮からか。
リスペクト不足ってのは、
『分かっていなそうだから、教えてやるか』
みたいな上からのやつ。
遠慮は、
『いや、でもこれが彼の彼女の良さ(作風)だからなあ』
みたいな、諦めの入ったやつ。
もちろんこれでは講評の受け取り方も、必然的に歪なものへとなっていく。
障壁はシナリオの技術の問題ではなく、各々の考え方にある。
こういう内面的なところでロスしているのは講評会において非常に勿体ない。
正直ね、『あぁ、この人まだ気づけていないな』と感じる人は勉強会に行くと一人はいる。
先ほど言った『無難なところ』。
これに気づけていない人がいるんだよね。これドラマとしてどうなの?って作品を出す人。
別に気づけていないことは悪いことじゃない。
自分だってそういう時期があったし、長いこと分からずに苦しんできたから。(今なら完璧ってわけでもないが)
必ずしも初心者ってわけでもないし描けないってわけでもないんだよね。
何年書いてもただただその一点に気づけず、一次落ちを繰り返す。
そういう人って少なからずこの界隈にはいる。
でさ、そういう人に遠慮しても意味なくね?と思っちゃう。
それが核心的なことなら尚更声を揃えて言ってあげないと。
審査員は当然のように『無難なところ』は見てくる。
作家が持つ特有の嗅覚って言うんかな。
一定のラインにたどり着いた人は、シナリオを読んだ時にまずそこを感じ取る。
というか、見る。
だから気づけていない人がいるのはその時点で、この講評会はリスペクトが行き届いていない遠慮がちな講評会、シナリオ外の部分でロスの多い講評会、そう言ってしまっているようなもの。擦り合せが足りていない。
残念ながらこれだけ言っといてお前が言うなって話でもあるんだけど、僕自身も未だリスペクトが足りていないところはある。
意見を言う前に『これ言っても聞き入れてくれねーだろうな』と思って口をつぐむことは一度の講評会で何度もある。
『創作なのだから作者の好きにやってくれ』と投げ出してしまっている。こういうのは僕自身本当に良くない。
言い訳するなら『一度はチャレンジしている』。そして心が折れたのだ。
理想はね、そういうのを繰り返して『無難なところ』を皆がある程度共通して理解している。出来ている。
これを前提としたグループが行う講評。
ここを目指したい。
皆が皆、
『あいつはシナリオが分かっている』
そういうリスペクトの先に進みたい。
今の勉強会のメンバーは好きだし、Zoomの方のメンバーも好きだ。
だからリスペクトの先を聞く土壌は整って欲しいと思っているし、僕自身そこを目指してもっと行動するべきなのかなと思っていたりもする。
でも今の空気感を大事にしている人もいるだろう。
現状が理想的と思っている人もいるだろう。
そう思うと、大々的に動けない。
誰も不満を漏らさないのは、むしろ浮いているのは自分の方なのではと錯覚(事実かもしれない)さえもしてしまう。
でね、リスペクトの先にある講評会。
これはどういうものなのか。
それは、
殴り合い
なんよな。
今日の記事は言ってしまえば、僕は殴り合いがしたい。
と、高らかに宣言しているのだ。
当然その壁はすこぶる高い。殴り合うんだもの。
それでも作風と作風がバチバチにぶつかり合うような、そういう講評会に参加したい。
講評に答えなんかない。どちらも正解。
そう思えるような語りがしたい。
で、数ある意見の中から何が最適なのか考えられる。
この『何が良いかな』と考えられる思考がリスペクト。
このリスペクトを誰もが誰もに持っているグループ。それが最高なのだ。
よくある講評会では、謎の優劣判断が出てくる。
僕はこれがすごく嫌いだ。
『こうしたら?』と言う意見に『そうじゃないよね』と話が進む。
『作者の案の方が優れています』とか『読者の理解が及んでいない(知識不足な)だけです』とか。
どれもリスペクトが足りていなくね?
講評の意味なくね??
そう思っちゃう。
まあなんつーかな、最初に話した『無難なところ』。ドラマを描く上で出来ていなきゃいけない部分。
これと混在してしまうから、講評に対して身構えてしまう姿勢は生まれがちってのはあるんだと思う。
『自作を否定されたー』的なね。だから否定の否定に走りたくなる感情。それは痛いほど分かる。分かるのだけれども。
今回の講評会で実際にあった例(嫌な気持ちにしてしまったらごめん)を話させて欲しい。
僕『ここの部分、僕は(主人公の感情の流れが)分からなかったから、例えばこうしたらどう?』
相手『でもこれは実際にあったことですし、ちゃんと取材もしています』
周り『まあいいんでない? 事実なんだし』
このやり取り。
僕はこの後、何も言えずに口をつぐんだ。多数決で解決はあまりにも辛い……。
うん、事実に基づいているのは分かる。この表現が間違いではないのも分かる。
けれども、僕はこのことに関して、間違いを指摘したわけじゃなくて『僕には分からなかった』そういうことが言いたかった。
分かる人には分かるというのは大前提で、世の中には色んな人がいる。
別に全員が全員に響くシナリオを描けと言うわけではないし、僕が分からなかったから駄作!と言うわけではない。
しかし講評会において、意見を切り捨てるのはどうなの? と思うんよな。
本人は切り捨てたつもりではないのだろう。そういう人ではないからね。
ただ結果として、切り捨てる形となってしまっている。
それはとても勿体ないことだと思っている。
ここで『事実だから』ではなく『分からないかあ。なるほどー』となってほしい。
そして周りは、
『私には分かります』『俺には分からない』とラインを見極めていくような雰囲気に持っていくのではなく、
『響かない人にはどうすれば響くのか』
『なぜふろゆは分からなかったのか』
そこから【シナリオの見せ方】を軸に話が膨らんでいって欲しい。
逆のパターンでリスペクト全開、
『お上の言ったことは絶対です』
これも好ましくない。
プロの脚本家や受賞者から受ける講評は、このパターンになりがち。相手も人。絶対はない。
作家性をしっかりと持つ。自分の描きたいものを信じる。
受けた講評を咀嚼した上で、適度に反発もする。
そうすることで作家(作品の魅力)がより見えてきて、以降有益な情報が出やすくなる。
例えばさっきの例を僕の理想とする講評会とするなら、
『(講評を受けて)それでも私はこういう人がいるってことを描きたい。ふろゆさんのような人が感情線を読み辛いことが分かったので、反対意見(アンチテーゼ)からアプローチを試みてみます』
とかね。
こうなって欲しい。セリフ一個ト書き一行ケアするだけで印象が大きく変わるのがシナリオなのだから。
シナリオのため、視聴者のため、そして自分のため。
どこまでストイックに向き合えるか。
創作者としてのプライドを持っていて、それでいてシナリオのために意見をしっかり吸収出来る作家の集まり。
そういう姿勢を全方位から常に感じられるような、そんな講評会がしたい。
講評会はこうあるべき。
誰もがきっとそう思っている。
それでも実現できているグループはほとんどないのだろう。
この世界で他人の作品を心の底からリスペクトし、講評するためには、
一に作品の第一印象、
二に作品への考え方、
三に当人の人格。
少なくともこれらを好意的な方へ乗り越えていかなければならない。
出会ったばかりで『はい、講評を始めましょう』と言っても、難しいのは当然である。
……共感できる人いる?
やっぱ求めすぎかな。
ゴールはガチ講評の先にある感性の育成、作家性の研磨。そこまでを見据えた講評会である。
お互いにリスペクトし合っていて遠慮の一切ない、シナリオを通じた親友みたいな存在がワラワラいるやつ。
社会人同士の付き合いではなく、学生の、何なら小学生の時のような頭の中剥き出しで語り合える、そんな講評が望ましい。
……。
そういう関係、一人見つけるだけで奇跡なのかもなあ。