アイーーン!
志村けんさんが亡くなった。
会ったことは一度もなかったけれど、今でもすごく感謝をしている人。
僕が好きな志村さんのギャグは圧倒的に「アイーン」。
小学生の頃、アイーン体操を友人と共に完コピして歌って踊っていただけで僕たちはクラスのヒーローになれた。
今思えば志村さんの真似をしていただけで、人気があったのは僕ではなく志村さん。
それでも、当時の僕は救われていた。
承認欲求が満たされていた。
養子生活により、子供ながらに人生に疲れていた僕。
そんな僕が「生きていていい」と思えた。
明日も、明後日も。
アイーン体操さえ踊ることが出来れば、世界に必要とされている。
そう本気で信じてひたすらアイーンを極めていた小学生時代。
もしあの頃アイーンと出会っていなかったら、
誇張ではなく僕は今頃、死んでいたか殺人一犯になっていただろう。
今でもアイーン体操は歌って踊れる。
今日も元気な朝が来たー。幸せいっぱい朝が来たー。
友だちみーんな揃ったらーアイーン体操を始めよう♪ (アイーン体操)
うう、志村さああああん!!!
こういう訃報を記事に起こすのは正直迷った。
迷ったというか、抵抗があった。
普段志村さんのことを一切書かない人が急に訃報があってこういう内容を書くと、
乗っかりっぽい。
ひどく薄っぺらく感じてしまう。
承認欲求は自己肯定が一定の基準に乗らない限り、一生付き合う必要のある時として「病気」だ。
「ご冥福を~」と言っている自分が好きなだけなんじゃねーの。
とか思ってしまうのは、僕がひねくれているだけなのだろうか。
切に悲しんでいるなら、心の中で弔ってくれ。
悲しんでいる遺族をそっとしてあげるべきだ。
遺族だってネットは見るんだから、
そこで薄っぺらい言葉ばかりが並んでいると、きっと嫌な思いをするだろう。
せめて僕より志村さんに人生を救われたレベルの人が発信しろ。というのはワガママが過ぎるか。
まぁこういう記事を書いている僕も同じ穴のムジナであるのは間違いない。
志村さんの訃報があってから、コロナウィルスに対する注目度が一段階上がったように思える。
もちろん今までだって世界中で騒がれていた。
トップニュースはWHOや政府の対策、ロックダウンの記事が連日と並ぶ。
でも、「志村けん」という大スターが亡くなったことで一変。
罹患者という【個】としての認識が大きくニュースで取り上げられるようになったと思う。
遺族は故人の火葬が終わるまで面会が出来ない。
そんな遺族のインタビュー記事を見ていると、複雑な気持ちになる。
これは志村けんだからという特別対応ではない。罹患者全員が同じ扱いだ。
だから、
『志村さんの遺族は可哀想』
そう思わせようとする記事がこのタイミングで世に出てくるのは何だか本質を見間違えている気がした。
遺族が可哀想なのは勿論そうなのだけど、同じ悲しみは今までにだって何度も、何度も、繰り返されてきているはずだ。
コロナウィルスにより亡くなった世界中の人々が同じ扱いを受けてきているはずなのだから。
今更になって表面に出てくるのはもう何というか。
憤りを感じる
前述した僕の嫌いな薄っぺらさにとても似ている。
薄い人間が記事を書いているからなのか。
記事を読んだ僕らが薄い人間だからなのか。
どちらにしてもこういう記事が挙げられ、注目をされている今の状態は現在の日本をとてもよく現しているように思う。
人も、政府も、全てが薄っぺらく感じる。
「貯蓄されてしまうから和牛引換券?」
本音は違うでしょ。
体裁や社交辞令を重んじる社会。
日本人はマナーが良い。人間が出来ている。
そう思わせるような文化は全て糞食らえって思う。
買い占めでトイレットペーパーが消え、次はとうとう食料品。
今となっては八方美人でさえもない。
嘘偽りの社会や国民に何の魅力があると言うのか。
このまま進んでも、最後に残るのは肥えたプライドだけなのだろう。
……。
たとえ醜くても、愚かだと思われても、真っ直ぐ正直にみんな生きてほしい。
自分らしい姿が一番キラキラしていて、綺麗だ。
そうは思っても僕に出来ることなんてたかが知れている。
だから自分が出来ることを精一杯やる。それだけ。
まずは不要不急の外出は控える。これ大事ね。(まとめ)
でもあれだけワイドショーで騒がれ、コロナウィルスの怖さを【何百人罹患】という単位でメディアも伝えてきたはずなのに、
志村さんという【個人】がそれ以上の影響力を国全体に与えているのは本当に【大スター】だったんだなと思う。
今までたくさんの笑顔をありがとうございました。
アイーーーーン!!!